数え切れないほど本郷苑を往復しました
お父様の聖和後、早朝になれば私は本郷苑(ポニャンウォン)に上りました。秋になれば暴風が吹きつけ、冬になればボタン雪が降り積もり、休みたい理由や言い訳はいくらでもありましたが、早朝になれば1日も欠かさず本郷苑に上りました。 聖和後40日間は朝夕の霊前に食事を捧げ、お父様が恋しい時には数えきれないほど本郷苑を往復して、お父様と多くの会話を交はしました。さうしてお父様の考へが私の考へになり、お父様の考へが私の考へになりました。 日差しの暖かい日、風の吹く日、突然雷が鳴つて土砂降りの雨が降る日、ボタン雪が空を真つ白に覆ふ日、それでも私はお父様の聖和後1095日間、一度も侍墓(シミョ)精誠を欠かしませんでした。 |
本日は文鮮明先生の聖和7周年であり、朝7時からの敬拝式、9時半からの記念式の2回、鄭ウォンジュ補佐官が朗読された訓読の一部が上の引用です。
孔子に
「服喪三年」
といふ言葉があります。
親が亡くなると、子は3年間その墓を守る精誠を尽くす。
それに対して弟子の宰我(さいが)は、
「3年は長過ぎます。1年で十分でせう」
と疑義を挟んでゐます。
しかし韓国には文字通りその3年を尽くす(侍墓)伝統があり、お母様は妻といふ立場ではありながら、その3年精誠を尽くされたのです。
今日の訓読を聞きながら改めて思ふに、お母様の侍墓3年はただ単に(夫の)愛と恩義に報いるというやうな意味のものではなく、
「夫の心が妻の心になり、妻の心が夫の心になる」
ための期間だつた。
「同じ心になるため」
といふより、
「同じ心であることを確認するため」
と言つたはうがより近いかも知れない。
お父様の心と一致してゐることさえ確認できれば、やるべきことははつきりしてゐる。
その時点でお母様の心はすでにはつきり定まつており、あとはただ定めた方向に進むだけといふのが、この7年間だつたやうに思へる。
その心の定まり方が、あまりに確固としてゐます。
夫を亡くし、その後を継がうとする母の心がここまで定まつてゐれば、子どもたちが少しばかりどうのかうのと言つたとしても、父の遺訓は必ず実行される。
去年から今年にかけての実績を見れば、それを否定しようがありません。
遺訓が成れば、家族の秩序は否応なく正されていくに違ひない。
すると心配すべきことは唯一つ、
「私の心はどう定めるのか、私の天一国はいつ成されるのか」
といふことです。

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