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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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もしかして「私」は何者でもない

20190724 

今朝起きて洗顔をしながらふと考へると、歯にしろ目にしろ、歳とともに段々と傷んでは来てゐるものの、これまで半世紀以上よく働き続けてくれてゐるなあと思ふ。
かういふ体の各部分がその役割をよく果たしてくれたお陰で私の人生にこれまで様々な喜びをもたらしてくれた。

そんなふうに思ふと我知らず、
「有り難う」
といふ言葉が口をついて出てきました。

本当に有り難いなあと思つてゐると、しばらくして今度は一つの疑問が湧いてくるのです。

「なぜ私は私の体のパーツに有り難うと言ふのだらう?」

私も自分で私の体も自分なら、自分が自分にお礼を言つてゐることになつて、これは何だか変だなあといふ感じがしたのです。
ふつう、お礼といふのは私が誰か別の人(あるいはモノでも)に言ふものでせう。

さうだとすると、私と私の体とは同一ではない。
私の体は私とは別の存在として存在してゐる。
さういふことになるでせうか。

ちょつと紛らわしいので「私」とカギ括弧をつけてみませう。

体は物質から成り、60兆の細胞やDNAなどが物質的な法則に従つて厳密に運行してゐる。
60兆の細胞のあるものは目になり、あるものは歯になり、あるものは手足になつてそれぞれの専門の役割をフルに全うしてゐる。
私の体は非常に豊かな「資産」を持つてゐます。

一方、その豊かな資産の恩恵を感じてそれに「有り難う」と感謝してゐる「私」は一体何者だらう。

もしかして「私」は何者でもない。
豊かな資産を有してゐる体に対して、「私」は何一つ有してゐない。

「私」は「私」といふ意識だけを持つてゐて、それ以外には何も持つてゐない。

ところが、それでも「私」が体を動かしてゐるやうに思へるではないか。
一体どういふことでせうか。

これはどうも、「私」は体といふ豊かな資産をお借りしてゐるだけかも知れない。

神様が「私」にそれを貸してくださつてゐると考へてみます。
すると、「私」は無償で貸してもらつてゐる豊かな資産を、普段はまるで自分のもののやうに思つて使つてゐる。

神様はあまりに寛容だし、体も何一つ文句を言はないので、「私」は体をあたかも「私のもの」(あるいは「私自身」)だと思ひ込んでゐる。

ところが今朝改めて「有り難う」と言つてみたことで、「私」と体とは別物で、「私」自身には何もないといふことにはたと気がついたのです。

体は「私」がお借りしてゐる資産だといふのですが、その体には2種類があります。
一つは上で考へたやうな物質から成る「肉体」。
そしてもう一つが霊的要素から成る「霊体」です。

しかし肉体にせよ霊体にせよ、「私」だけが自由に使へる資産としては同じです。

そして「私」は限りなく神様に近い。
「私」も神様も自分自身としては何もない、謂はば「ゼロ」のやうな存在でありながら、無限に豊かな資産を持つてゐます。

そのやうに「私」とは何者でもなく、何も持たないものであるとすれば、「私」にできることは「感謝」しかないやうに思へます。
今朝「私」から我知らず出た「有り難う」は、どうやら「私」が言ふべき、ごく自然で当たり前の言葉だつたのです。

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