お前を知らない
統一教会の文先生といふ人を、神様は愛していらつしやいます。 それは私がよく知つてゐます。 しかし私は生涯を捧げて信じてきましたが、あるときは、神様に抗議したいと思ふときが一度や二度ではありませんでした。 私が死地に行くと、神様は 「知らない」 と言はれます。 「お前を知らない」 と言はれるのです。 しかし、後から気づいてみると、「知らない」と言ふ父母の心はどれほど苦しいでせうか。 (『文鮮明先生のみ言に学ぶ統一原理(後編)』344) |
自分のすべきことはしなければなりません。 自分のすべきことをするときは自分が責任を負はなければならず、それは神様や真の父母様とも関係がないと思はなければなりません。 神様と真の父母様のためにするのであつて、神様や真の父母様は私を手助けすることはできないと思はなければなりません。 神様がおられないかのやうに、自分の仕事のためには自分が責任をもつてしなければならないのです。 神様は黙つて信じてくださるだけでよいのです。 それがすべてです。 その結果を神様と真の父母様に捧げればよいのです。 (『心情文化世界とマスメディア』文孝進著 221) |
我々人間の側の責任分担が問はれる状況に近づけば近づくほど、神様は黙られる。
イエス様の十字架の時も、さうでした。
お父様に対しては、
「お前を知らない」
とまで言はれる。
辛い状況になつて、神様を信じるのに神様の沈黙に出会ふとき、私の責任が問はれる重要な局面だといふことを考へる。
お父様でさへ、後になつてその時の神様の苦衷に気づかれたといふのです。

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