自信を持つていいと思ひます
「私達の霊人体は受け止めた波動を私が分かる言葉に変換してくれる」
といふやうな意味のお父様のみ言葉があることを、知り合ひのある方から教えていただきました。
教へて下さつたその方にはそれを実感するやうな体験があるさうですが、私には自覚的にはないと思ふ。
じつと考へても思ひ当たらないのです。
霊人体の機能はどんなふうに作用するのでせうか。
例へば、霊界の妻が何か思ひを私に伝へようとすれば、霊界からこちらに伝はる音波はないから、何か別種の波動を発する。
しかしそれは波動ですから、そのまま言葉としての体を成してゐない。
それで私の霊人体の中に変換装置があつて、妻が発した波動を私が理解できる現代日本語に翻訳してくれる。
最近ではスマホのアプリにも外国語を瞬時に翻訳し発話してくれるものがあるくらいですから、霊人体にそれくらいの機能が備はつてゐるとしても不思議ではないでせう。
自覚的な体験はないとしても、私にも時々ふいに閃く言葉があります。
それはもしかしたら、霊界からの波動を翻訳してゐるのかもしれない。
しかしそれが本当に私に親しい霊界の誰かからの波動かどうか。
それをどのやうに確認したらいいでせうか。
冒頭のみ言葉を教へてくださつた方は、
「あなたの推察はことごとく当たつてゐると思ひますね。自信を持つていいと思ひます」
と言はれるのですが、私にはそんな自信はとても持てない。
大体私は感じる前に頭で考へてしまふ質です。
「あの世から伝へてくるとしたら、こんなふうに言ふのではないか。かういふ言葉であるはずだ」
といふふうに頭で想像し考へてしまふ。
そんな内容が「ことごとく当たつてゐる」とはとても思へないのです。
しかし「自信を持つていい」といふ言葉があまりにきつぱりしてゐるために、少し考へ込まざるを得ない。
もし本当に「ことごとく当たつてゐる」とすれば、それはその都度の閃きがいつも正しいといふことではない。
一つ一つの閃きは多少的を外してゐたとしても、その閃きが続いていく大きな方向性は必ず間違つてゐない。
なぜかといふと、私が求めて行かうとしてゐる本性探求の道は必ず神様の導きの中にあるはずだから。
今の私は不完全で思ひが至らないとしても、さういふ私を導かうとされる神様の導きは絶対に間違はない。
それに対しては「自信を持つていい」。
何かを悟つた気になつて傲慢になり人を見下すやうにでもなれば、神様は私を叩かれる。
叩かれると意気消沈して
「私の考へのどこがおかしいのだらう。どう考へ直したらいいのだらう」
と悩み込む。
さういふ体験をよくします。
大切なのは、叩かれることも神様の御心だと受け止める心構へだらうと思ひます。

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