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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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180度変へてみよ

20190611-1

今から5年ほど前に『嫌われる勇気』(岸見一郎著)を通してアドラー心理学に出会つたことを、最近になつて思ひ出すことがある。
改めて考へてみると、アドラーは我々の見る方向を180度変へてみよと言つてゐるのに、あれから5年経つても容易に 変はらない自分を感じる。

180度といふのは、これまで過去を見ていた眼を未来に向けよといふことです。
あるいは、これまで外を見ていた眼を自分の内に向けよということです。

今の自分は過去の環境や体験の影響を相当程度受けてゐると考へるのが普通の感覚でせう。
多くの心理学でも「トラウマ」などと言つて、記憶の持つ力を強調します。

それで我々はある出来事への自分の反応を見ながら、
「私の育つた家庭環境がかうだつたから、今の私がかうなのは仕方ない」
などと考へる。

過去の体験の記憶から解放されて自由になるといふことは、確かに容易ではないでせう。
アドラーも当然そんなことは承知だと思ふが、その上でなほ、「眼を未来に向けよ」と言ふのです。

例へば、引きこもりになつて外に出られない人がゐるとすれば、それは過去の体験に原因があるので、その記憶を癒す必要があると普通には考へる。
しかしアドラーは、「外に出たくない」といふ自分なりの(隠れた)目的があつて、そのために引きこもりの自分として留まつてゐると分析するのです。

原理を学んでも事あるごとにアダムとエバの問題が出てきて、
「あの時堕落があつたから…その後孫だから…」
といふ原因論に陥りやすい。

あるいは、何か事がうまくいかないと、
「これまでの自分の罪が重いから…」
といふやうな発想になりやすい。

しかし今はそんなふうに過去に目を向ける時ではないやうに思ひます。
何か事がうまくいかないのは過去に原因があるのではなく、今の状況を乗り越えないままで済まさうとする自分自身の隠れた目的があることを自覚して、その壁を突破する。

これはもう一つの視点転換、つまり自分の外側を見てゐた眼を自分の内側に向けるといふこととも関連します。

何かが難しいと感じるとき、その原因は自分の外側にあるのではなく自分の内側にあると自覚する。
原因は過去にあるのではなく、未来に向けて道を開いていくことを自ら止めてゐる自分の内面にあると考へる。

今のままの自分から変はりたくない。
この願望は意外に強い。
しかも多くの場合無自覚なので、余計に厄介です。

なぜ、無自覚ながらも変わりたくないなどと思ふのでせうか。
変はるためには自分の内面をありのままに直視しなければならない。
それはかなり辛い作業なのです。
それよりはむしろ、問題の原因が過去や自分の外側にあると考へておくはうがづつと楽です。

「子どもが思ふやうになつてくれないのは、家庭的な蕩減が重いから…」
「夫がなかなか信仰を持つてくれないのは、夫の背景に宗教性が乏しいから…」

さう考へてゐると自分に責任がないやうに感じられるので、少し慰められます。

しかしアドラーは、
「このやうに考へるのは、子どもも夫も今のままでゐてくれたはうがいい」
といふ潜在的な願望が自分にあるからだと指摘するのです。

これを変へなくては状況が変はらないと言ふ。
なかなか辛い心理学です。

しかし後天時代は過去の先天時代から続いた歴史を抜け出し、自分の意識を縛つてゐる箍(たが)を自ら外す時代だらうと思ひます。

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自分にも原因 * by はちみつ
ご紹介されていた中山氏の本も読んでみました。

アドラー
入江富美子氏
中山氏
ホ オポノポノ

共通点がたくさんあります。
その中でも「様々な出来事は、自分に原因がある」という考えに頭を砕かれました。自分の非は認めるには抵抗がありますが、一旦認めると関わった全ての人に「責任転嫁」する気持ちが薄れて来ました。むしろ「責任転嫁」していたことが、申し訳なく思います。

そう考えると、教会が「日本が悪い。罪を償え」と繰り返し言われることに疑問が湧いてきました。
日本も確かに悪い。それは反省する必要がある。だけれど韓国にも原因があって、このような事態になったということに繋がるのではないか。
日本を非難するばかりではなく、韓国も反省が必要なのではないかと。

私の考えは、飛躍しているのでしょうか。教育部長さんは、どう思われますか?

Re: 自分にも原因 * by 教育部長
いくら「自分の中に原因がある」と考へる人でも「相手の中にもそれなりの原因はあるよな」といふ思ひがあることを否定しきれませんね。私の中にもあることを否定できません。
しかしここで問題にするのは「本当の原因は誰にあるのか」といふことでも「原因の何割が自分にあり、残りの何割が相手にある」といふことでもありません。「私に原因がある」と認めることは私がすることであり、「相手にも原因がある」といふのは自分が考へることではなく、相手自身が認めることです。私は私の原因だけに責任を持ち、相手にも原因があるとすればそれは相手自身の責任です。相手の責任まで私が越境追及するのは、原理でもホ・オポノポノでも入江さんでも中山さんでも本意ではないと思ひます。
このことをアドラーは「課題を分離せよ」と言つてゐますね。自分の原因を認めて対処するのは自分の課題であり、相手の原因を認めて対処するのは自分の課題ではなく相手自身の課題です。それなのに相手の課題にまで干渉したい思ひはどこから出て来るのか。自分自身の内面をよく見る必要があるなと思ひます。
かういふ考へは現状ではかなり非常識と思へますね。「相手にも非がありさうに思へるなら、それを指摘してあげないと問題解決しないじゃないか」と普通には考へますから。しかしそれが本当に(本質的に)問題解決するのかどうか、私には疑問符があります。
韓国は自分が反省せず日本ばかりを非難する(と思へる)とするならば、「その出来事」の原因はやはり「私にある」。何だかとても愚かな考へのやうに感じられますが、理屈からするとさうなると思ひますね。

コメント






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自分にも原因

ご紹介されていた中山氏の本も読んでみました。

アドラー
入江富美子氏
中山氏
ホ オポノポノ

共通点がたくさんあります。
その中でも「様々な出来事は、自分に原因がある」という考えに頭を砕かれました。自分の非は認めるには抵抗がありますが、一旦認めると関わった全ての人に「責任転嫁」する気持ちが薄れて来ました。むしろ「責任転嫁」していたことが、申し訳なく思います。

そう考えると、教会が「日本が悪い。罪を償え」と繰り返し言われることに疑問が湧いてきました。
日本も確かに悪い。それは反省する必要がある。だけれど韓国にも原因があって、このような事態になったということに繋がるのではないか。
日本を非難するばかりではなく、韓国も反省が必要なのではないかと。

私の考えは、飛躍しているのでしょうか。教育部長さんは、どう思われますか?
2019-06-12 * はちみつ [ 編集 ]

Re: 自分にも原因

いくら「自分の中に原因がある」と考へる人でも「相手の中にもそれなりの原因はあるよな」といふ思ひがあることを否定しきれませんね。私の中にもあることを否定できません。
しかしここで問題にするのは「本当の原因は誰にあるのか」といふことでも「原因の何割が自分にあり、残りの何割が相手にある」といふことでもありません。「私に原因がある」と認めることは私がすることであり、「相手にも原因がある」といふのは自分が考へることではなく、相手自身が認めることです。私は私の原因だけに責任を持ち、相手にも原因があるとすればそれは相手自身の責任です。相手の責任まで私が越境追及するのは、原理でもホ・オポノポノでも入江さんでも中山さんでも本意ではないと思ひます。
このことをアドラーは「課題を分離せよ」と言つてゐますね。自分の原因を認めて対処するのは自分の課題であり、相手の原因を認めて対処するのは自分の課題ではなく相手自身の課題です。それなのに相手の課題にまで干渉したい思ひはどこから出て来るのか。自分自身の内面をよく見る必要があるなと思ひます。
かういふ考へは現状ではかなり非常識と思へますね。「相手にも非がありさうに思へるなら、それを指摘してあげないと問題解決しないじゃないか」と普通には考へますから。しかしそれが本当に(本質的に)問題解決するのかどうか、私には疑問符があります。
韓国は自分が反省せず日本ばかりを非難する(と思へる)とするならば、「その出来事」の原因はやはり「私にある」。何だかとても愚かな考へのやうに感じられますが、理屈からするとさうなると思ひますね。
2019-06-14 * 教育部長 [ 編集 ]