学校に行つたら交通事故に遭つて死ぬ日
もう一つ、中山靖雄さん(『すべては今のためにあったこと
息子が4人おり、4人とも中学生の頃に不登校がひどかつた。
「一難(男)去つて、また一難(男)」
と表現するほどでした。
中山さんは講師として全国を飛び回つてゐるので、なかなか家にはおられない。
そこで、結局は奥様が息子たちの対応に当たることになる。
学校へ行かないとなつたら、息子はうんともすんとも言はない。
そこである時、お母さんは悩んだ末腹をくくつて、かう決意したのです。
「息子が学校へ行かない日は、学校へ行つたら交通事故に遭つて死ぬ日」
これはお母さんが勝手に決めたことです。
マインドセットの切り替へと言つたらいいでせうか。
目の前の息子の様子は変はらない。
見た目には朝から学校へも行かず、ぐうたらしてゐる(やうに見える)。
周りからは
「あの中山先生の息子さん、学校にも行かず、一体何なの?」
と陰口を言はれる。
しかし、しやうがない。
でも、マインドを切り替へてみると、だんだん
「今日も息子が生きてくれてゐてよかつた」
といふ気持ちになつてくるのです。
学校の情報もすぐにあつたらいいからと、お母さんは学校の役員を進んで引き受ける。
すると、似たやうな悩みを抱へてゐる親御さんも多いことに気がつく。
今まで見えてゐなかつたものも見え始め、
「子どもの出来てゐないところよりも、出来てゐるところを見つけたはうがづつと幸せだ」
といふことにも気づき始める。
私にも似たやうな体験があつたので、考へさせられます。
中学生くらいなら、布団をひつぺがして無理やり追い立てれば学校へ行かせられるやうな気がする。
ところが息子は頑として布団から出ない。
この時、私はマインドセットの切り替へがうまくできなかつた。
「どうしてこの子は怠けるんだろう? どうしたら息子を変へられるだらうか」
と自分の基準で考へてしまふのです。
この問題は息子の課題であると思ひ、私の課題だとは考えなかつた。
今にして思へば、
「自分の思ひ通りでなくて大丈夫」
もつと言えば、
「自分の思ひ通りでなくて有り難い」
と思へたらどうだつたらう。
人生には想定外、自分の予想を外して思ひ通りでないことが次々に起こる。
その時に、自分の想定外の相手や状況をいちいち思ひ通りに修正しようとしたら、これは大変、といふより、ほぼ不可能です。
だつたら相手を変へようとせずに、自分にできることを考へ、それに集中する。
お母さんがやつたのは正にそのことです。
「自分の思ひ通りになつたら、この人は交通事故で死ぬ」
と本当に思い切れれば、大抵のことは容認できるのではないか。
だつたら確かに
「自分の思ひ通りでなくて有り難う」
なのです。
そして息子にも
「私の思ひ通りに学校へ行つてくれなくて、有り難う」
と言へる。

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