修業に頭は要らない
中山靖雄さんが「あたらしい道」の松木草垣(そうえん)師のもとに修行に入つた初つ端にガツンと言はれます。
「あなたは自惚れ屋です。全国を講演して『先生、先生』と崇められていい気になつてゐるでせう。あなたは『修養、修養』ばかりで、みたま(御霊)さんが分からない」
中山さんが所属してゐたのは「修養団」。
そこの講師として全国を忙しく講演して回つてゐたのです。
修養団では下座を重視する。
講師としてどこに行つても、そこで必ず便所掃除をするのです。
これは「心」を育てる、つまり「修養」するためです。
ところが松木師は、
「お前さんはそれを自分がやつてゐると思つてきたでせう。さうじゃない。天がお前さんを使つてゐるんですよ。ほどほどにしなさい。あなたは頭で考へた『ああなる、かうなる』が多すぎる。『修業』に頭はいらないんです」
と容赦なく指摘する。
「修業に頭は要らない」
と仰る。
「頭で考へる」
と言つてゐるのが肉心の考へです。
肉心には計算がある。
「かうすれば、ああなる」
と考へる計算高さがある。
「便所掃除をすれば、頭の低い講師だと見られる」
とまで打算的でないとしても、
「便所掃除を通して自分の傲慢さを戒める、人格の高い講師になる」
といふくらゐは計算する。
かういふ計算は「修業」から見ればすべて「嘘」だと松木師は諫めるのです。
魂(たましい)の「たま」(生心)を育てるのが「修業」だとすれば、修行には頭はいらない。
といふより、頭を使つてはいけない。
つまり、肉心の思ひを極力捨てる必要があるのです。
とは言ふものの、かく言ふ私自身が頭を使い過ぎる人間です。
日々とても多くの計算をしながら生きてゐます。
中山さんへの叱責はまるで私に浴びせられてゐるやうな気がします。
「かうすれば、ああなるはず」
「これをしなければ、後で責任を問はれる」
「かういふ場面では、かういふ祈りをしなければ」
「ここまで努力をしたから、これくらゐは評価されるべきだ」
本当に様々な計算を繰り出してゐます。
そして計算通りにいかないと、その原因を探ります。
「おかしいな。自分の計算は正しいはずなので、自分以外の誰かがおかしいに違ひない」
そのやうに考へて、だんだんとおかしなところへ落ち込んでいきます。
下座の修養と考へて便所掃除をすること自体は悪いことではないでせう。
しかしそれを自分が自分の意志で自分のためにしてゐると考へるとおかしなことになる。
天が私を使つてゐると考へる。
あるいは、生心が成熟するために肉心と肉体を使つてゐると考へる。
アダムが生命の木になるのに下手な計算は要らなかつたのです。

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