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「修養」と「修行」は何が違ふのか

kitasendo
20190602 

修養団の講師をしてゐた中山靖雄さんが30代の頃に、「あたらしい道」といふ団体の松木草垣(まつきそうえん)さんといふ方のところで3か月修行したことがある。(『すべては今のためにあったこと』中山靖雄著)

中山さんが属してゐたのは「修養」団。
松木さんが教えるのは「修行」の道。

「修養」と「修行」は何が違ふのかといふと、育てるものが違ふ。
修養は「心」を育て、修行は「魂」を育てるといふのです。

さうすると「心」と「魂」とは同じではないといふことですが、どう違ふのか。
これは昔から私にとつてよく分からない点でした。

例へば『天聖教』の中にこんなみ言葉があります。

人間には体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。


どこか別のところでは、
「心と霊とは違ふものだ」
というやうな話もしておられます。(なかなか探し出せないので曖昧ですが)

中山さんの話では、「魂」とは「たま」と「しい」の2つの要素から成るといふ。

「しい」といふのは、
「嬉しい、悲しい、羨ましい」
などといふときの「しい」です。

つまり「しい」とは、さまざまな人や物、出来事に遭遇したときに私の中に生じる「感情」「喜怒哀楽」「思ひ」と言つたらいいでせうか。
それでこの「しい」とは、お父様が言はれる「心」に当たるものかと思ふのです。

魂にはこのやうな「しい」もあるのですが、死ぬときにはこの「しい」を捨てて「たま」だけになる。
この「たま」を丁寧に言ふと「みたま」といふことになつて、私の本体は「みたま」である、といふふうな言ひ方をするのです。

この世で「たま」が「たま」らしく育つには、「しい」が必要なやうです。
「しい」はものに触れて起こる思ひですから、「しい」の動きによつて「たま」は刺激を受ける。
あるいは逆に、「たま」は「しい」を使つて形をつくつたり、行動に移したりできる。

私なりには、こんなことを考へます。

私は「優しい」人でありたいと思ふ。
優しい人は人の話をよく聞いてあげる。
決して声を荒らげず、穏やかな言葉で話す。
何かをしてもらつたら、必ずお礼を言ひ、お返しをする。

かういふ人は悪い人ではない。
人に安心感を与へ、好かれもするでせう。
しかしこれは「しい」の世界、「心」の次元なのです。

人の本質は「しい」ではなく「たま」なので、人は優しいだけではだめだ。
優しいだけでは本当の人とは言へないし、他の人に深く影響を与へたり導いたりはできない。
「たま」が育つた人にならなければならない。

そこでもう少し考へてみると、「しい」が表す「心」とは、肉心のことだとも思へます。
それに対する「たま」とは「生心」です。
つまり人は死ぬときに肉体とともに肉心を捨て、生心だけをもつ霊的実体(霊人体=みたま)となる。

我々が自分の生心を育てようとすれば、必ず肉心が必要だといふことになります。

肉心はものに触れて「嬉しい」「楽しい」「清々しい」などと感じて、その喜びを生心に伝える。
その栄養素によつて生心は育ちます。

ところが一方、肉心は「羨ましい」「憎たらしい」「悔しい」などといふ思ひももつて、人を批判したり自己正当化したり自己嫌悪に陥つたりもします。
これを修正しようとするのを「修養」といふのでせう。

それに対して「修行」といふのは「魂」の「たま」つまり「生心」のはうに重点をおいて育てようとすることだと思へます。
生心が育てばだんだんと肉心を主管できるやうになります。

ならば、生心(たま)を育てるにはどうするか。
松木草垣さんがどう教えてゐるか、もう少しこの話を続けてみませう。

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Admin:kitasendo