良心と自分をつなぎ直す
これもまた入江富美子さんの体験談なのですが、5歳の時にお父さんが突然亡くなつた。
ある朝起きると、お父さんが心臓まひで亡くなつてゐた。
そして駆けつけた救急隊員の一人が言つた
「あと5分早かつたら」
といふ一言が、入江さんの人生を変へたのです。
「私があと5分早く気づいてゐたら、お父さんは死ななかつた」
と思つたら、自分が間違つたせいでお父さんが死んでしまつたといふ考へが心の深くに根を下ろした。
それ以来、
「正しくあらねば存在してはいけない」
「間違ふと悪いことが起きる」
「問題はくい止められるし、くい止めなければいけない」
といふ強迫観念にも似た方程式を信じるやうになつたのです。
入江さん自身の分析では、この時に「直観(良心と言つてもいいでせう)」と「自分自身」とを切り離してしまつた。
自分の心の中で様々感じることがある。
しかしその正直な感じをきちんと感じられない。
「どう感じるべきか」
「人はどう感じてほしいと願つてゐるか」
「どうやつて人の期待に応えたらいいか」
といふ感じ方にどうしてもなつてしまふ。
入江さんの5歳の時の体験はちょつと珍しい体験かも知れない。
しかし「どう感じるべきか」といふやうな感じ方は、多くの人にもありさうな気がする。
私の中にもあるのを感じます。
例へば、人はある理念や宗教教義を習ふとそれが物事の判断の基準になるので、
「この理念が正しいと言つてゐる方向に沿つて感じるべきだ」
と半ば無意識のうちに考へるやうになる。
さう感じなければ、自分は間違つた人間だといふことになるからです。
もちろん、その理念通りに感じられる自分になれればいいのかも知れませんが、最初からさうはなれない。
それでその過程で自分が実際に感じてゐる感情がすべて「かくあるべきだ」といふ理性の力で押し込められてしまふ。
「自分はあの人が嫌ひだ」
と感じても、理性では
「どんな人も差別なく愛せる人になるべきだ」
と考へて、「嫌ひだ」といふ感情には市民権を与へない。
それでその感情は意識の深い所に押し込められるが、消えてなくなるのではない。
息苦しく存在し続けてゐます。
あんまり苦しいので、折々に意識の表面に出てくる。
しかし理性が働けば、再び押し込められる。
これが自分自身だけのことならまだしも、他人に対しても「かうあるべきだ」といふことを強制しようとすることがあります。
「あなた、その感じ方は変でせう。それは原理的ではないから、もつと原理を勉強しなさい」
などと言つたりするのです。
私が自己牧会プログラムを続けながら感じるのは、かういふ感情を一度はちやんと認めてあげるべきだといふことです。
例へば、
「今思つてゐるこの思ひは本当の私とは関係がありませんので、手放します」
といふワークがあります。
これは手放すワークなのですが、その前に一旦その思ひをしつかり認めて感じ切るといふところが重要ではないかと思ふのです。
「本当はこんなふうに感じてきたんだな」
と正直に認める。
その上で、存在の使命を終へた感情として手放す。
「思ひ通りでなくて大丈夫」
といふワークも同様です。
理性が主張する通りの思ひでなくてもいい。
むしろ理性通りでないことで大丈夫どころか、むしろ有り難い。
そんなふうに認めてあげる。
さうすると、認めてもらつた感情は満足をして、
「これで私の役目は終はりました」
と言つて素直に無に戻つていく。
かういふことを繰り返すことで、
「物事は必ずかうあるべきだ」
といふ囚われ、固執といふもの(これが肉心の癖とも言ふべきものです)から解放される。
固執は今自分が実際に感じてゐることを見えなくさせる。
今の本当の自分の姿が自分で分からなくするのです。
しかし固執から解放されるにつれて、良心の声を聞き取る準備が段々と整つていきます。

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