私が加害者です
『おかげさまの法則
中山さんの肩書は
「修養団・元伊勢道場長」
となつてゐますが、話しておられるその内容は私がこのブログで書いてきたこととほとんど同調する。
私なりにはこの15年ほど段階的に積み上げてきたアイデアと体験が
「なんだ、もうすでに同じことを悟つて修行、体験してきた方がおられたんだ」
といふ感じです。
とは言へ、私のそれよりはよほど深いので、とても参考になります。
びつくりしたといふのは内容が同調してゐることではなく、ある一つの証です。
それは中山さんのところに通つて勉強してゐた高円寺さんといふご夫婦の体験談。
5歳の娘さんが交通事故に遭つて亡くなつた。
事故を起こした人が警察にゐると聞いて、夫婦で会ひに行かれた。
その時のご夫婦の行動に私はびつくりしたのです。
ご夫婦はその人の前に行くや、土下座をしてお詫びをされたといふのです。
「かういふ縁に逢はせてしまつて、ごめんなさい。かういふ縁に逢ふ子どもを育てたのは私の因縁です。どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになつてください。本当にごめんなさい」
これはまつたく常軌を逸した言動です。
子どもが急に飛び出してブレーキが間に合はなかつたといふやうな状況があつたのかどうかは分からない。
しかしさうであつたにせよ、子どもが亡くなつてしまつた以上、普通の感覚ではこのご夫婦が被害者であつて、
「ごめんなさい」
と謝るべきは事故を起こした人でこそあれ、決してご夫婦のはうではないでせう。
ご夫婦のはうが謝るといふなら、
「自分たちのはうこそ加害者です」
といふことになつてしまふ。
ご夫婦の思考方式は一体どうなつてゐるのでせうか。
ご夫婦の子どもには5歳で事故に遭ふ因縁をもつてゐた。 自己に逢ふには事故を起こす人がゐなければならないが、あなたがその損な役回りに当たつてしまつた。 娘の因縁に巻き込まれなければあなたの人生はもつとうまく運んだであらうに、巻き込んでしまつてごめんなさい。 この事故についてはあなたに責任があるのではないので、どうかこのことは忘れ、あなた本来の人のためになる人生を生きて行つてください。 |
大体こんなふうでせうか。
そして更に言えば、
5歳で事故に遭ふやうな娘をもつたのは、私たち夫婦の因縁です。 一番の責任は私たちにあります。 |
因縁といふのはとても日本的な言ひ方ですが、ともかく、この事故についての最も奥深い原因は運転者でもなく子どもでもなく、その子どもをもつた私たち親にある、と考へておられるやうです。
親に一体どんな原因があるのか、それは親自身にも分かつてはゐない。
分からないのに
「私たちに原因がある」
と考へてゐる、といふか信じてゐる。
こんなふうに幼い我が子が事故で突然死んでさえ被害者になり得ないとするなら、この世にはほとんど
「私は被害者だ」
と言へるやうな出来事はないのではないかとさえ思へます。
そして自分自身のことを振り返つてみても、これまで
「私が被害者だ」
と思ひ込んできた事柄が、実は全く反対に、
「私が加害者だつた」
といふことになりはしないかと思はれてきて、非常に胸騒ぎがします。
例へば、誰かからひどい言葉を浴びせられて私が傷ついた体験があるとする。
これは明らかに言はれた私が被害者だと思つてゐるのですが、もしかしてこれさえ私が加害者かも知れない。
「あなたはそんなひどい言葉を言ふ人ではないのに、それを言はせてしまつたのは私の因縁です。こんな因縁に巻き込んでしまつてごめんなさい」
こんなふうにむしろ私のはうがお詫びしないといけないのかも知れません。
ここまで行けば私は決して「歴史の被害者」ではなく、「主体としての私」になり得るのではないかと思へます。

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