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私は歴史の被害者ではない

kitasendo
20190524 

「背景」
といふ言葉を使ふことがあります。

背景といふのは、その人の何十代何百代にもわたる先祖の方々が残した課題の総体と考へたらいいでせうか。
このやうな背景はその内容こそ人それぞれに違ふものの、誰にも例外なくある。

この課題が今の私に現れると、課題が少ない場合は人生はあまり苦労なく進むが、課題が重たい場合には苦労に苦労が続く人生になる。

かういふことはお父様も言つておられるので、間違ひはないのでせう。
しかし、この発想はちょつと要注意だと思ふのです。

例えば、パチンコが大好きなご主人がゐる。
本人が好きでするのに止めるわけにもいかないが、やり過ぎると帰宅も遅くなり、出費もかさむ。
家計を守る妻としては大いに困る。

その時、妻は考へる。
「夫にはパチンコにはまる背景があるに違いない。これを何とかして変へないと」

解決すべき課題は夫、あるいは夫の背景にある。
そのせいで妻である私は困つてゐる。

フォーカスを夫(妻からすれば自分以外の他者)に当てると、考へ方は当然このやうになります。
ところがこの時本当にフォーカスすべきは夫の背景ではなく、妻自身の背景ではないかと思ふのです。

つまり
「パチンコにはまる夫をもつて悩む背景が私にある。これを何とかして変へないと」
といふふうに考へる。

夫にフォーカスを当てるときには、妻は夫から苦しみを受ける「被害者」になります。
しかし自分にフォーカスを当てれば、自分が抱へる課題で自分が苦しむのだから、「加害者」と言へばやや言い過ぎかも知れないが、少なくとも「被害者」にはならない。

私が何か問題に直面したとき、自分を「被害者」の立場に立てる限り、その問題を解決することはほぼ不可能でせう。
悪いのはいつも私を苦しめる誰か。
その人が加害者なのだからその人を責めるしかないが、さういふふうにして相手を思ひ通りに変へるのは、ラクダが針の穴を通り抜けるよりも難しい。

問題を感じるとき、どこにフォーカスすべきか。
少し基本に還つて考へてみませう。

堕落論もうまく学ばないと、我々は堕落の「被害者」になつてしまひかねない。
例えば、堕落論の一節にこんな記述があります。

このように、人間の堕落した動機は天使にあったから、その堕落の動機と経路を知るためには、まず、天使とは何かということを知らなければならない。
(『原理講論』堕落論第2節)


堕落の動機は天使にあつたのだとすれば、悪いのは天使で、それに誘惑されて堕落した人間は被害者のやうに見えます。
それでもアダムとエバは直接堕落に関はつた人だから何がしかの責任は問はれるかも知れないが、その子孫である我々は純粋な被害者ではないだらうか。

それでも人間には自由意思がある。
自由な決断でサタンとの関係を断ち切つて元の位置に戻つていけばいいではないか。
ところが現実には容易にそれができず、づつとサタンの縄目に縛られたままで血統が続いてきた。
なんと可哀さうな被害者たち。

しかし原理を子細にみれば、それは我々を被害者だとは規定してゐないのです。

かういふ記述があります。

我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、いまこの「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。
(緒論「復帰摂理歴史と『私』」)


この「私」は決して歴史の被害者ではない。
過去に対して責任を持たうとする「主体としての私」です。

このやうな「主体としての私」にならうとすれば、私は私が直面する問題のどこにフォーカスし、私の時代的使命をどのやうに果たさうとすればいいのでせうか。

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Admin:kitasendo