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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

感謝する日々

2010/05/20
思索三昧 0
池田晶子

3年前、46歳の若さで亡くなった池田晶子さんの哲学エッセイが好きで、よく読んでいました。
中でも『考える日々』はまさに哲学者池田晶子という人物そのものを表すタイトルです。

「生きるとは何か?」
「死ぬとは何か?」
「人間とは何か?」

と、ひたすら考え続けた人です。

しかもそれは、眉間にしわを寄せて考えたのではなく、元来この人はそのようなことを「考える」ことにしか興味がなかったのです。

彼女の「考える」は、ふつう私たちが日常的に思い描く「あれこれ考える」というような「考える」ではありません。
1日中、来る日も来る日も、徹底的に考え続けるのです。

「考える」ことがそれ以外の日常生活と分離していません。
と言うより、「考える」ことが彼女の生活であり、人生そのものでありました。

「死ぬのはべつにその人だけではない。遅かれ早かれ全ての人が死ぬのである。死には『なぜ』なんて理由がないのは、生に『なぜ』の理由がないのと同じである」(『知ることより考えること』)

このように考えた彼女が癌だと分かったとき、彼女は、
「なぜ、私が癌になったの?」
とは問わなかった。

自分が癌になったということなどお首にも出さず、死ぬ間際まで淡々と書き続けました。
彼女は確かに「言葉」と「生き方」が一致していました。
大した「腹の据わり方」です。

自分の頭で考える限り、生にも死にも「なぜ」という理由はないの が当然でしょう。
死に理由がなければ、それを恐れ、忌避する理由もないので、従容として死を迎えるその態度には、哲学的な一貫性があります。

そうでありながら、彼女がそこまで徹底して考えて、「生きるとは何か」「死ぬとは何か」「人間とは何か」が分かったのではありません。
いくら考えても分からないのです。

しかし大概の人は、それが分からないといい加減なところで考えるのを止めます。
ところが、彼女はそれを突き詰めて考え続けるのです。
それでふつうの人から見れば、彼女は「変人」に見えます。

もっとも、彼女自身にすれば、それ以外の生き方はできなかったのでしょう。
「考える」ことだけを唯一の使命として今生を生きた人のようにも見えます。

ただ、やはり、ちょっと可哀想な感じもします。

32歳の時に、ある方の一人息子と結婚したようですが、私の読んだ限りでは、一度たりとも彼女がその著作の中で夫について、夫婦関係について語ったことがありません。

ところが、夫のことは一度も出てこないのに、愛犬のことは度々出てきます。
「考える」こと以外では、愛犬を可愛がり、愛犬と散歩することが、彼女の唯一の喜 びであったように見えます。

その愛犬が老衰で死んだ後、彼女は放心状態になり、大きな喪失感に捕らわれます。
愛犬がいてくれただけでも有り難かったのだと悟り、「考える」哲学者の口から初めて、
感謝
という言葉が出てきます。

彼女が死に臨んで1ミリも揺れなかったのは見事であり、「考える」日々のお蔭に違いないとは思います。
しかし、人としての幸せということを考えると、私は「考える日々」よりも、
感謝する日々
を生きたほうがもっと良かったのではないかという気がします。

そして、愛犬に感謝できるのであれば、女性としての愛を完成させてくれる唯一の存在である夫に対しても感謝できれば、「考える」ことだけでは見出せない「喜び」ももっと感じられただろうにとも思います。

哲学者は考えることを通して「感謝」というものの根拠と価値を見出さなかったのでしょうか。
どうやら「感謝」というものは、人間が自分の頭で理性的に考え得る枠の外に見出せるもののようです。


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