どこから吹いて来ましたか
気候も良い時期だし、久しぶりなので、今日の二世礼拝は野外へ。
私は初め近くの低めの山に登らうかと考へたが、川がいいといふ子どもたちからのリクエストで、教会から車で20分、鮎が住むほどきれいな水が流れる道の駅へ行く。
出発する前に簡単な講義をしたのは、
「万物たちと共鳴する」
ただ川へ行つて楽しむのではなく、万物と対話してみようと提案したのです。
「川へ行って、どの万物でも構ひません。河原の石でもいいし、川の水でもいいし、花でも虫でもいい。何か一つを選んで対話してみよう」
私たちの心(生心と肉心)には心情というものがあって、心の声(良心の声)を聞くと相手の喜びを通して自分も喜ぶ存在になります。 つまり、宇宙の愛の主人になるのです。 |
かういふお父様のみ言葉を紹介し、自分なりの思ひが去つて心情が動き出せば良心の声を聞くやうになると説明します。
これはまだ私の推論に過ぎないのですが、私たちが時々万物の声を聞くといふ体験をするのは実は万物が話すのではなく、もしかして良心の声ではないかと考へたりするのです。
良心が万物の姿を通して万物を装つて私に語りかける。
さうだとすると、河原の石ころが話しかけてきたやうに思へば、それはその人の良心の声だといふことになる。
しかしその時は石ころが話しかけてきたと思へばいいのであつて、
「ああ、石はそんなふうに考へてゐるんだ」
と感動する。
そしてその石の喜びを通して自分も嬉しくなる。
そのやうになれば、私はその石を愛して彼の主人になる。
今日の講義ではそこまでは話さず、とにかく万物を対話してみようと勧めるに留めました。
河原に着くと、昨日までの雨が上がつて5月の爽やかな日差しが降り注いでゐる。
20分ほどの時間を指定すると、子どもたちは銘々散らばつて、川の水に足をつけてみたり、形の良い石を探してみたりし始める。
最後に集まつて石投げ競争をする。
平たい石を水平に近く投げると水の表を何度も跳ねながら飛んでいく、あれです。
道の駅に上つて行くとベンチがある。
持ち寄つたおにぎりを出して食べながら、証し会が始まります。
対話相手に石を選んだ子、水を選んだ子、虫を選んだ子、いろいろゐるが、
「声を聞いた」
といふ子はゐない。
しかしそれぞれに良い時間を持つたやうです。
私自身も初めの内、水を見たり、対岸の岩を見たり、向こうの山を見たりしたものの、なかなか対話相手が決まらない。
どれもこれも容易に対話ができさうにない。
そのうち、私の顔を風がなでるのを感じるやうになつたのです。
「ああ、今日はこんなに風が吹いていたのか」
と思ふ。
川面を見ると、風の吹き方が変はるとともに波の形が変はる。
風が弱まると波は大きくなり、強まると小さくなる。
あたかも川の表情を刻々に変へてゐるやうです。
「あなたはどこから吹いて来ましたか?」
と聞いてみた。
答へはない。
ただ、私の顔をなで続けてゐるばかり。
答へはないので、
「どこから来たかは大した問題ではないよ。かうして今日ここで会へたことが嬉しいのではないか」
と私なりに答へを出しました。
良心の声を聞くのは、まだまだ容易ではない。

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