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喜びと感謝の回路

kitasendo
20190516 

夕食の材料を買うのに、教会からの帰りがけにいつものスーパーに寄ってあれこれ物色してゐると、近所のおばさんに会つた。
おばさんと言つてはちょつと失礼かな。
私よりせいぜい2つか3つ上くらゐ。
家の近くでも犬の散歩などで時々出会うことがある。

今日も
「ちょくちょく会いますね」
と言ふと、
「〇〇君、娘さん、よかつたね。△△銀行に就職したんだつてね」
と言はれる。

誰から聞いたのか、知らない。
まあこんなことは情報通のおばさんたちにとつては天網恢恢だから、情報源はどこでもいい。

ただ、このときのおばさんは、その喜びやうが、とにかく我がことのやうだつた。

「あんまり一人で遠くに行きたくないタイプだから、地元に戻つて来てくれたんです。まあ、父親のことも心配なのかな」
と言ふと、
「ほんとによかつたね。よく頑張ったよね。肩の荷がだいぶ軽くなつたでしよ。おばあちゃんもまだまだ元気さうだし、ほんとうにいいね」
と喜んでくれる。

その喜びやうが本当に我がことのやうなので、私はかういふ人が近所にゐてくれることが有り難いなあと思つた。
と同時に、この喜びやうにおいては私が負けてゐるなあとも思つたのです。

私はこの人のことでこんなに喜んであげたことがあつたか。
あるいは、誰か他に人に対してでもどれくらい喜んであげただらうか。

喜びといふものに思いを巡らせると、その順序はまづ自分のことで喜ぶ。
その次に人のことで喜ぶ。

それはちょうどイエス様が
「自分を愛するやうに、あなたの隣人をも愛しなさい」
と言はれたことにそのまま通じるなと思ふ。

生まれたての赤ちゃんを見ると、人は生まれながらに「喜びの回路」ができていると思はざるを得ない。
いないいないばあをするだけで、赤ちゃんはキャッキャと言つて喜ぶ。
何がそんなに嬉しいのだらう。
それでもともかく赤ちゃんが喜ぶと、それを見てゐる周りの大人までつられて喜ぶ。

自分が自然に喜ぶことで、巧まずして周囲まで喜ばせる。
自分が喜ぶといふことには、さういふ力もあります。

そして次には、人のことを我がことのやうに喜ぶ。
親が我が子のことを本当に我がことのやうに喜べれば、それは最も自然で素晴らしい子女教育と言へるでせう。

子どもは往々にして親の思ふやうにはいかない。
服のセンスも違ふし、こんなことのどこが面白いのかと思ふやうなことに熱中したりもする。

「こんな突飛な色の服、どうして買ったの?」
と思ふのは、親自身の好みと価値観から出る思ひです。

このとき自分の価値判断をおいて、
「いいの買ってきたねえ」
と一緒に喜べれば、親子の気持ちはとても近づくと思ふ。

一緒に喜ぶといふのは、自分の価値判断を捨てるといふことではない。
喜ぶといふことには、好みや正邪の判断を超えたより本質的な価値があると思ふ。

本当の感謝といふものも、喜びを土台として湧いてくるものです。
喜びがない時に感謝しようといふのは、謂はば「理屈の感謝」です。

喜びといふのは
「よかつた」
といふことです。

肉心で判断すればおかしな子であつても、
「この子が私のところに生まれてきてくれて、よかつた」
と思へる。

肉心で考へれば嫌な出来事であつても、
「かういふ問題を私が潜在的に抱へてゐることを分からせてもらつて、よかつた」
と思へる。

本当にそのやうに「よかつた」と思へればそれは喜びなので、感謝が湧いてくる。
その時の感謝は、理屈の感謝ではありません。

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Admin:kitasendo