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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

思ひ通りにならないほうがむしろいい

2019/05/12
原理を学ぶ 0
自己牧会
20190512




「思ひ通りでなくて大丈夫」
といふタイトルで久しぶりの礼拝説教を担当した。

自己牧会プログラムで実践されるワークの一つで、私が礼拝で紹介するのはこれが2つ目です。
前回紹介した「固定観念を手放す」といふワークも、その後実践してゐる人はほとんどゐないやうなので、説教で話すくらゐで聞く人のやる気を鼓舞するのが難しいことは分かります。

それでも話さうと思ふのは、一つには、「良心」といふものの重要性についての認識を共有したいと願ふからです。

原理講論に出てくる良心には、いささか残念なことに、あまり人格的な香りが感じられない。

このやうな力は、誰も遮ることができないものであつて、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになる。
(創造原理第2節)             


良心は私が知らない間に働く。
普段はじつと静かに潜んでゐながら、私が悪を為した時だけ急に声を上げる。
そんな印象です。

ところがお父様のお話には、これと随分趣きの違ふ良心観があります。

それで、良心を神様のように絶対信仰しながら、一つにさせる道が修養の一番近道です。
祈祷するときも、良心に向けて話をするのです。
良心と自分(生心と肉心)と話し合うのです。
そうすると、良心が第一の神様の基準に立つようになります。


ここでは、良心と話し合いなさいと勧めておられます。
祈祷するのも神様ではなく、良心に祈る。
そんなふうに良心を最高に尊ぶと、良心は第一の神様の基準に立つやうにさへなる。

かういふ良心観を私はこれまで長い間はつきりと意識したことがなかつた。
多分多くの食口にとつてもさうだらうと思ふ。
しかしこの良心観は極めて重要だと感じるのです。

正しいかどうか確信はないものの、この良心観の重要性をこんなふうに考へます。

良心を中心とした修養の目的は、良心を「自己化」することにある。
良心は元々第2の神様として私に与へられたものだとしても、それと深く関係を結ぶことによつて良心の思ひが次第に私の思ひになる。
さうすると、良心の願ひ通りに生きることは良心の実績ではなく、私の実績になる。
それによつて私は良心に導かれながら自己の責任分担を果たすやうになる。

ところで、説教が終はつてしばらくして、私は最も肝心なポイントの一つを言ひ忘れたことに気づきました。

「物事が思ひ通りにならないと感じるとき、思ひ通りにならないその原因は自分の外側にあるのではなく、ほとんどすべて自分の中にある」

これは私がワークを続けてみて、ワークをする度により強く感じるやうになつたことです。

「思ひ通りにならなくて大丈夫」
といふのは、大丈夫といふより、思ひ通りにならないはうがむしろいい。
その思ひの大半は肉心から来るものだと思はれるからです。

肉身の思ひ通りにならない事態になつて初めて、私たちは自分の中にどんな固定観念や自己中心の思ひが溢れてゐるかについて自覚させられる。
そして、思ひ通りにならないことはその思ひ自体を変へることによつてしか本質的に解決されないといふことに気づく。

だから、物事が思ひ通りになつていけば自分が内面に抱へる問題に気づけないので、むしろ思ひ通りになつてはいけないのです。
神様も良心も、そのことに気づかせようとして働くのだらうと思ひます。

説教を聞いた中の一人があとで、
「聞こえてくる声が良心の声なのか肉心の声なのか、曖昧で区別がつきにくいですよね」
といふ感想を聞かせてくれました。

次回の説教ではその見分け方について話してみようと思ひます。

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