へそが開く
入江さんの遍歴をもう少し続けます。
肉心の激しい抵抗と闘いながら
「天が期待してゐることを私に実現させてください」
と必死で祈り続けてゐたある年の大晦日、開眼するやうな体験をします。
それまでビジョンを求めて、欠けてゐる自分を満たさうと努力してきたのに対して、
「そのままでいい」
といふことを初めて腹の底から認めたのです。
その瞬間、おへそがまるで大地が揺れるやうに振動し始め、腹の底から
「ありがたう~っ」
といふ感謝が溢れ出した。
感謝は「する」ものではなく「溢れ出す」ものだといふことを初めて体感します。
そして、この体験を後に
「へそが開いた」
と教へられるのです。
へそが開くと、そこから必要な情報をいつでもいくらでもダウンロードできるやうな感覚になつた。
自分にとつて必要な情報はいつでもそばにあるといふ感覚です。
後になつてこの時の体験を振り返つてみると、感謝が噴火するやうに溢れ出すその一瞬手前に、思ひがけない気持ちを感じたのを思ひ出す。
「こんなに自分を否定してきた私なのに、づつと許されてきた。今までそれに気づかずにごめんなさい」
この気持ちの中には、づつと許されてきたことへの「感謝」と、それに気づかずにきたことへの「お詫び」の2つが含まれてゐます。
言葉にすれば、「有り難う」と「ごめんなさい」です。
私自身はそこまでの体験をしたことがないので推測するだけですが、この2つの言葉「有り難う」と「ごめんなさい」で良心に通じる道が開いたやうです。
その道が開くと、必要な時に必要な情報を良心が教へてくれるやうになる。
良心は神様につながつてゐるので、その情報はつねに私にとつて最適な情報であり、私なりに考へることよりはるかに精緻です。
ところが問題もあります。
良心からやつて来る情報は、これまで自分なりに考へてきたものとはあまりにかけ離れてゐるものが多いのです。
それに従ふかどうか。
覚悟が問はれることになります。
ところで、「へそが開く」とはどういふことでせうか。
それを教へてくれた人によると、神様や先祖のすべての情報はへその裏の奥に全部はめ込まれてゐる。
へそが開くと、そこから私に指示(声)がくるやうになるといふのです。
それで入江さんはへそのことを「一点」とも言ひ、「私の本体」あるいは「みたま」とも呼びます。
これはどうも、私の良心はへその奥にあるといふことらしい。
肉身と霊人体とは、このへそでつながつてゐると言へるかも知れません。

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