人の人生を生きるな
この連休、妻の生まれ故郷岩手の花巻まで飛行機と車で乗り継いで往復した旅は、外的に動く体とは別に、内面の心では今までにない思ひをいろいろと体験した。
少し比喩的な言ひ方をすれば、これまで私の肉心が長年溜め込んできた膨大な量の思ひが次々に湧き出すのを感じながら、それを自覚的に一つ一つ手放していく。
さういふことの連続だつたやうな気がします。
その過程で何度も繰り返し浮かんできた言葉が
「人の人生を生きるな。自分の人生を生きろ」
といふものでした。
特に印象深かつたのは、花巻から東京まで帰つて一晩息子のアパートに泊まつた夜のこと。
夜中に何度も目が覚める。
いろいろな心配が頭に浮かんできて、すぐに希望の持てる解決策も思ひつかず、苦しいのです。
夜明け方にまた目が覚めると、
「いつまでも頭で考へるな。自分の感情にもつと目を向けろ」
といふ思ひが湧いてくる。
「今の自分の感情は一体どんなものだらう」
と考へてみると、何が悲しくて何が嬉しく何を願つてゐるのか、自分でよく分からない。
おかしい。
自分の感情がなぜ自分で分からないのか。
するとまた、
「父親としてどう考えどう振る舞ふべきか、信仰人としてどういふ態度を見せるべきか。そんなことばかり考へるな。なぜお前は一人の人間として本当に願つてゐることを素直に見つめないのか」
といふ思ひが寄せて来る。
本当の自分はどこにゐるのだらう。
本当の自分はどのやうに生きたいのだらう。
子どものことや人のことをあれこれ心配し過ぎて、本当の自分の人生が空になつてゐるのかも知れない。
そのやうな自分のありやうを「人の人生を生きる」と言つたのだらうと思ふ。
誰かのことを無闇に心配しても、その人の助けにはならない。
本当の助けにならうとするなら、先に自分の人生を生きることだ。
そのやうな人でなければ、人の力にはなれない。
お父様のみ言葉にも確か
「本当に善なる人とは、早く自分のことを済ませてから人のことを助けてあげられる人だ」
とある。
メシヤの内実もないのに、メシヤの使命を果たすことはできない。
お父様はおそらく25歳までにその内実を準備しようと真剣に努力されたのだらうと思ふ。
今の私には肉心が溜め込んできた思ひを手放し続けることで、自分が本当に願つてゐることが分かり、自分のことを早く済ませる方法が少しづつ見えて来るやうな予感がしてゐるばかりです。

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