「批判の世界」を作り出さない
先日の記事「極楽を願わない人」で中尊寺金色堂を拝観したときの印象を書きました。
それを考へながら見ると、5m四方の金箔の建物は豪華といふより、どこか侘しい。 「贅を尽くした金箔で極楽浄土を地上に現すほどに願つた来世は、贅を尽くせば尽くすほど、そこに行ける自信がなかつた内心を見せてゐるやうな気がする」 |
印象のやうに書いてはゐながら、ここにはどうも私の先入観が潜んでゐるやうです。
「権力欲のために政敵を滅ぼし、贅沢を尽くし、それでゐてさういふ自分が極楽往生したいといふ願望のために領民を酷使する。それが権力者といふものだ」
藤原4代がどんな人物であつたか、どういふ人生を送つたのか、私は不勉強にて詳らかに知らない。
にも拘はらず、
「そこ(極楽)に行ける自信がなかつた」
と決めつけてゐる。
これは結局、
「自分の判断(印象)は正しい」
といふ前提(思ひ込み)によるお門違ひな妄想的批判かも知れない。
自分が発する批判はそれが巡つて自分に対する新たな批判を呼び込み、自分の周りに「批判の世界」を作り出す。
「その世界を作り出す元凶になつてはいけない」
といふかすかな声ならぬ声が聞こえて来るやうな気がします。
いかなる状況でも基本的に批判は控へるといふことを、私は自分に言ひ聞かせてきたつもりでゐました。
批判の根底には堕落性が十中八九潜んでゐる。
さう考へるからです。
堕落性は
「自分は正しい」
と思ひ込む癖があります。
「自分が正しく、自分の考へと違ふ人が間違つてゐる」
と考へるので、自分の考へが通らないと自分を被害者にしてしまふ。
そして自分の考へに同調しない人を加害者に見立てるのです。
このやうにして、堕落性を持つた私たちはその姿のままで、堕落性に満ちた世界の中で生き延びていくことができてゐます。
家庭盟誓に言ふやうに
「真の愛を中心とする天一国の主人」
は他の人を批判できません。
主人といふのは自分が関はるすべてのことに「責任の主体」として対する人なので、人を批判せず、自分が責任を取らうとするのです。
私はまださういふ「主人」にはとてもなれてゐないのですが、せめて第一段階の「無批判」を実践しようと自戒だけはしてゐるつもりでした。
ところが、気がついてみるとどうやらそれもまだできてゐない。
せめて藤原4代の実際の姿を客観的に見ようと、取り敢えずネットでいろいろ探してみたのですが、詳しい姿は判然としない。
今のところでは
「極楽へ行ける自信がなかつた」
といふ決めつけだけは撤回しておかねばなりません。

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