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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

過関心、無干渉

2019/05/05
私の中の世界 0
20190505 

あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。
(創世記2:16)

ここで言ふ「園のどの木」と「善悪を知る木」について、お父様の深い洞察を聞いたことがあります。
しかしここでは私なりに閃いた内容に沿つて考へてみます。

この聖句を見ると、神様の心には一つの枠があることが分かる。

「園のどの木」
とは正しさ(是非)の問題であり、
「善悪を知る木」
とは男女の愛の問題です。

エデンの園の中でアダムとエバができることのほとんどすべてについて、神様は許容なさる。
しかしただ一つだけ、許容できないことがある。
善悪の木の実を取つて食べることです。
それだけはどうしても外すことのできない神様の心の枠です。

アダムが森に出かけて蛇の2,3匹を殺さうが、昼まで寝てゐやうが、エバと毎日喧嘩をしやうが、神様と意見が少しくらゐ違はうが、神様はとやかく言はれない。
神様にとつてそれくらゐの是非は許容範囲内にある。

誰がどれくらゐ正しいかといふ問題はそれほど大きな問題ではなく、罪に問ふほどのことではないのです。
だから「園のどの木を取って食べるか」は人間の良心を信頼して任せると言つたらいいでせうか。

それを聖書は
「心のままに」
と言つてゐます。

ところが一つだけ、善悪の実を取つて食べることだけは神様の心の枠に抵触する。
これに触れると、神様の心はぎゅつと固まる。
愛さうとしても心から愛せなくなる。

このやうな神様と人間との関係を
「霊的な死」
と言ふのでせうし、それを聖書では、
「神はアダムとエバをエデンの園から追ひ出した」
と表現してゐるとも思へます。

追放された人間がもう一度そこへ戻つて来るには、この愛の問題を解決しなければならず、ぎゅつと固まつた神様の心を解放しなければなりません。

しかしここにもう一つ、我々が解決しなければならない問題がある。

「園の中のどの木からでも取つて食べてよい」
と言はれた「正しさ」の問題です。

これは例えば、カインとアベルの関係にも現れてゐます。

アベルの供へ物は受け取られ、カインの供へ物は拒絶された。
そこでカインの中に葛藤が生まれる。

神が人を差別するのは正しいのか。
弟が優遇され兄が冷遇されるのは許されることなのか。
苦しむ人に神が慰めや救援の手を差し伸べないのはなぜなのか。

これらの思ひは結局、
「誰が正しくて、誰が間違つてゐるか」
更に言えば、
「私が正しく、相手が間違ってゐる」
といふ、正しさを定めようとする時に現れる傲慢、不平、責任転嫁の思ひに他なりません。

つまり、今の私たちにとつては堕落性の問題なのです。

「取つて食べるな」といふ愛の問題が解決される救いの時代を迎へてもなお、私たちは「どの木からでも食べなさい」といふ正しさの問題から抜け出ることができず、互ひに争ひ合つてゐる。
神様は大きな心で包み込まうとされるのに、私たち人間同士が自分の正しさを主張して相手を容易に受け入れられないのです。

「私の正しさ」の衝突は一般社会でもネット社会でも国家同士の関係でも現れてゐない所がない。
この問題を一体どこから解決すればいいのかといふと、やはり家庭だと思ふ。

冒頭の聖句はまさにそつくりそのまま家庭に当てはまります。
特に父母は神様の立場で、心の枠は外せないながらも、どの木から食べるかは子どもたちの良心に(「心のままに」)任せる。
親自身の「正しさ」を強制しない。

子どもたちが神様の許したどの木から食べるかについては、細心の良心教育を施せるなら(これが重要なのですが)、
「過関心、無干渉」
といふのがよいのではないかと考へてゐます。

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