極楽を願わない人
数年ぶりに妻の故郷岩手の花巻を訪ねて子どもたちと平泉の中尊寺をお参りに行くと、連休中とてすごい人出だつた。
広い境内の最奥にある金色堂を拝観するのに、1時間以上並ぶといふ想定外の混雑ぶり。
いよいよ入つてみると、中は狭い。
山手線の満員電車以上の人込みで、人の頭の合間に金色の仏像や螺鈿の柱がちらちら見える。
奥州藤原氏の栄華は、清衡、基衡、秀衡、泰衡のわずか4代。
博物館の年表を見ると、その栄華は150年ほどで終はつてゐる。
それを考へながら見ると、5m四方の金箔の建物は豪華といふより、どこか侘しい。
「贅を尽くした金箔で極楽浄土を地上に現すほどに願つた来世は、贅を尽くせば尽くすほど、そこに行ける自信がなかつた内心を見せてゐるやうな気がする」
その当時、金色堂を造立するのに働いた多くの名もなき人々。
今日もそれを拝観するために遠路足を運ぶ家族や恋人たち。
その人たちが、金を集め仏像を捧げる権力者よりも極楽に遠かつただらうか。
金色堂を出て長い参道を歩くと、年を経た杉の巨木が両側に林立する。
目を足元に向けると、名前も知らない小さな紫の花がぽつぽつと咲いてゐる。
彼ら杉の巨木、紫の野花がむしろ金色堂やその中の金の仏像より、はるかに極楽に近いやうな気がする。
ふいにお父様のみ言葉を思い出す。
「博物館のガラスに入れられた李朝時代の王の冠より、道端に咲く一輪の野花にもつと創造の価値があるのを感じるか」
彼らは徒に極楽を願はない。
ただ成長して人のために日陰を作り、可憐に咲いて人の目を楽しませようとしてゐる。
彼らは元々自分に備はつた以上には飾らないが、その中には真実が満ちてゐる。
そのやうなものがむしろ極楽に近いと思ふ。

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