「私は私である」ための自己牧会
モーセ神に言ひけるは、われイスラエルの子孫(ひとびと)の所へゆきて、汝らの先祖たちの神我を汝らに遣はしたまふと言はんに、彼らもしその名は何と我に言はば何と彼らに言ふべきや。
神モーセにいひたまひけるは、我は有りて在る者なり。
(文語明治訳出エジプト記3:13)
モーセをエジプトに遣はさうとされる神様に対してモーセがその名を尋ねるといふ有名なくだりです。
神様の答えは
「有りて在る者」
分かるやうで分かりにくい。
ここを英語では
「I am who I am」
と表現してゐます。
それを私なりに
「私は私である」
と考へてみると、
「神は神である」
といふふうにも言へるやうな気がします。
「神は神であつて、初めも今も変はらない。たとえ人が変はつても、神である私の本性は変はらない」
といふことです。
神様のこのやうな不変の正体性は、例えば堕落論の第6節にも表れてゐます。
「神様が人間始祖の堕落行為を干渉されなかつたのは、独り神様のみが創造主であるためである」
これもまた
「神は神である」
といふのと同じです。
「神は神である」といふ在り方以外に神様には在り様がないので、人間の堕落行為を干渉することはできなかつたのです。
一方、我々人間はこれまで
「私は私である」
と言へる自分であつたのでせうか。
堕落によつて本性を失つてしまつた我々は
「(今の)私は(本来の)私である」
と言へない自分でした。
私が願ふことは
「私は私である」
と言へる人間になる(復帰する)ことです。
どうしたら私はそのやうな人間になることができるのか。
神様は人間に干渉されないことによつて、人間の責任分担5%に介入されないと同時に、ご自身の責任分担95%を絶対死守されました。
人間の責任分担5%に介入しないといふのは、人間を絶対否定しないといふことです。
介入するといふのは相手のやらうとしてゐることを容認できないといふ意味であつて、それは相手を否定することだからです。
それでゐて神様は、ご自身の責任は死守される。
相手を否定せず、この出来事の責任は自分にあると考へられました。
このことによつて
「神は神である」
と言へる神様であり得たので、我々も
「私は私である」
と言へるためには、同じやうにするしかない。
つまり、相手を一切否定せず、責任は自分にあると考へることです。
一対一であらうと大小の組織であらうと、何か物事がうまくいかないとき、その責任は相手あるいは組織の誰かにあるのではなく自分自身にあると考へる。
勿論実際に自分がとれる責任には自づと限界があるでせう。
その限界がどこまでかは別にして、まづは心の中で、
「この責任は私にある」
といふところから思考を出発する。
相手の責任は一切問はずに、
「私がどのやうに行動すれば(変はれば)、この事態はもつと改善されるだらうか」
と考へるのです。
しかし現実には、これがあまりに難しい。
我々はほとんど本能的に(肉心を中心として)
「自分は正しい、少なくとも相手よりも相対的により正しい」
と考へる癖があるからです。
それで、物事がうまくいかない原因は相手にあると考へ、その相手を変へようとする。
しかし深く考へてみると、物事がうまくいかないとか、おかしな考へをする相手が目の前にゐるといふのは、解決しなければならない問題が実は私自身の中にあることを神様が見せておられる。
さう考へるのが最も真実に近いのではないかといふ気が私にはするのです。
その意味で、教会で言ふ「牧会」といふものも、その本質においては「自己牧会」であるべきだと思ふ。
教会員は自分を牧会してくれる真の牧会者は自分自身であると心得る。
また誰か他の人を牧会するなら、まづ牧会しようと考へる人自身の自己牧会から正しく始まらなければならないといふことです。
さうしてこそ
「私は私である」
といふ道が見えてきます。

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