私の生活感情はどうでせうか
最近になって私は生活感情ということをいつも考えています。
私たちは子女として復活しなければならないのですが、それは神の痛みを私たちがどのように引き受け、消化することができるかということにかかっています。
悲しみと惨めさにたくさんぶつかった人は、むやみに自分を現すことができないように、神も現れることができません。
それで神が隠れていらっしゃるというのです。
あまりに悲しく恨めしい神は、簡単に現れることができません。
神が神らしく現れることができません。
それゆえ神はもちろんのこと、霊界に行った殉教者たちをまず再臨させなければならないということを、最近になってとても感じます。
殉教者たちは、この地上に体をもって生まれ、惨めに死んでいきました。
その恨みが地上に残っています。
それで私たちもその人たちが殉教した心を抱いて生きるならば、その人たちが来て、まず私たちを証しようとします。
その次に、殉教者たちを動員させることのできる子女を通して、神の恨みを解くことができます。
私たちが神の事情を知る前に、まず苦労した殉教者の恨みを解くことができる者になろうというのです。
ですから、私たちが受けるすべての苦労を天の苦労と連結させながら、神を探す道で、過ちがあってはなりません。
苦労を通して、私たちはよく失敗します。
(「あまりに悲しく恨めしい神」李耀翰牧師)
私の生活圏に現れる「苦痛」を通して神様を探し、その恨みを解いてあげる者にならう。
神様の恨みを解く前に、歴代の殉教者たちの恨みを解き、彼らを再臨復活させてあげよう。
牧師の説教の主旋律はつねに一貫してゐて、
「生活の中の苦痛をどのやうに扱ふか」
といふことです。
信仰の中で「苦痛」はとても重要な要素なのですが、実際には苦痛を通して我々はよく失敗する。
苦痛には蕩減条件が潜んでゐます。
しかしそれは単に苦痛を受ければ蕩減条件が立つといふことではなく、よく受けなければならない。
苦痛はよく扱へば神様をも殉教者をも解放することができるのに、下手をすれば逆に恨みを増幅してしまふといふことです。
ところで李牧師は、神様の解放の前に殉教者たちの解放が必要ではないかと言つておられます。
これはどういふことでせうか。
殉教者は神様を愛しながら、地上での生活は最も惨めなものでした。
神様を信じても信じても、現実の生活は思ふにまかせない。
最後まで神様を信じ切つたといふ喜びと自負心はあつたとしても、その死にざまはあまりに惨めです。
殉教するといふ肉体的苦痛ばかりでなく精神的苦痛までも、それをよく扱ふといふことは容易でなかつたでせう。
殉教者とは、信仰ゆえの苦痛を最も大きく背負つた人です。
その人たちを私たちが解放してあげる術があるのでせうか。
あるとすれば、それが今生活の中で私の受ける苦痛をよく扱ふことです。
今の時代環境で殉教の道に立たされるといふことはないでせう。
それでも、人からあらぬ誤解を受ける。
あるいは、精誠を尽くした努力が実らない。
自分の力不足を思ひ知らされて自信を失ひ悩む。
さういふあらゆる苦痛をよく扱ふことです。
それを李牧師は
「生活感情を正しく持つ」
とも表現されてゐます。
失望するやうなところで信じる。
恨まざるを得ないやうなところで許す。
惨めになりさうなところで神様を仰ぐ。
さういふ生活感情を抱いていけば、殉教者の霊は再臨復活する。
そして殉教者が再臨復活すれば、そこで初めて神様が姿を現すことができる。
殉教者の苦痛に通じれば、その背後にある神様の事情と苦痛にも通じるやうになるといふことでせう。
さうすると結局私たちが神様に逢うためには、
「生活感情を正しく持つて生きる」
といふ一事に集約されます。
(冒頭の李牧師の説教を紹介して下さつたのはブログ「いつも私のとなりに神様」です。

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