永遠の喜びを享受する
私たちの心(生心と肉心)には本心(成熟した生心が肉心を主管してゐる状態)というものがあって、心の声(良心の声)を聞くと本心の特性によって絶えず喜びを創造するからです。それで、その本心の喜びによって完全かつ永遠に喜びを享受することができるのです。
先日の記事でも紹介したお父様のみ言葉です。
お母様がある時、
「本当に100%感謝するとき、心と体が統一されます」
と言はれたことがある。
一見とてもシンプルですが、宝のやうなみ言葉だとも感じます。
私たちには生心と肉心といふ2つの心がある。
お母様が心と体と言つておられるのは、生心と肉心に置き換へて考へることができます。
さうすると、
「本当に100%感謝するとき、生心と肉心が統一される」
と言ひ換へることができます。
「感謝する」といふのは生心の特性であり本性です。
だから、もし私たちが100%生心の願ふ通りに生きられるやうになれば、それがまさに生心が肉心を愛で屈服させ主管する生活になる。
そしてこのときの心の状態を
「本心」
と呼べます。
良心の声を聞きながらそれに従い、生心が肉心を愛で主管できる本心の状態になれば、その本心からは絶えず喜びが湧き続ける。
それは創造本来の人間の生活、喜びの生活です。
100%感謝して生きるといふことは、即ち不断の喜びの生活を生きるといふことです。
このとき、生心と肉心はすつかり一つになつてゐる。
統一が先なのか喜びが先なのか、よく分かりません。
ところで、100%感謝するといふのは一体どういふことでせうか。
100%といふことは、感謝しないことがないといふことです。
快いことが来ても痛いことが来ても、区別なく感謝するといふことです。
快いことが有り難く痛いことは有り難くないと思ふのは当たり前のやうでありながら、これは肉心が中心となつた感じ方です。
生心は物事をそのやうには区別して判断しない。
すべてを神様の愛に基づいた摂理だと生心は感じ取ります。
このやうな生心に100%従つて生きることができれば、心身統一の道が見えてきます。
お母様は別の機会に、
「『感謝』と『愛』、この2つが原理の本質である」
とも言はれたことがあります。
私にとつて感謝の道は少しづつ見えてきたやうな気がする一方、愛はどのやうに出てくるのか、愛の乏しい私には愛の道は展望ができない。
さういふさ迷ふやうな感じがづつとありました。
しかし冒頭のみ言葉を見ると、完全かつ永遠の喜びを享受できるその境地において愛が現れないといふことがあるだらうかといふ気がしてきます。
乏しい中から絞り出すやうな愛ではなく、喜びとともに湧き上がる愛。
感謝の道を進むなら、その道は必ず愛に行き着く。
霧が立ち込める道が段々澄んで晴れていくやうなみ言葉です。

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正論のように思えますが、痛いことがありがたくないのは当然でしょう。その肉心の思いがとにかく悪いというのではなく、生心の思いがある時ふっと湧き上がって感謝に変えるのです。良心に対して絶対信仰、絶対愛、絶対服従を誓う者はそうなのです。しかしマゾヒズムのように痛みをすべて感謝で受け取れというのは違うように思います。ある意味食口はとことん自分の欲求に素直になることの方が今は必要だと思っています。そうでないと気付かずにどこまでも小さく卑屈になってしまい、より大きな理想も、本当の感謝の思いも捧げることができなくなります。先天的な信仰観が自由という翼を手折っています。