妄想を解く
私の心の中身を吟味してみると、その8割から9割は「妄想」だなと思ふ。
「妄想」といふのは、「今」「ここ」に軸を置かない思ひです。
例えば、日曜日の午前10時、私は礼拝に参席してゐる。
目の前の壇上では説教者が語つてゐる。
最初のうちはその言葉に耳を傾け、意識を集中しているのに、次第に飽きてくると、いつの間にか昨日の出来事を思ひ出す。
あるいは、礼拝が終はつた後の予定を練り始める。
かういふとき、私の心は「今」「ここ」にない。
昨日の出来事も礼拝後の予定も、それを「妄想」と言ひます。
想像するに、このやうな「妄想」に憑りつかれやすいのは私だけではあるまい。
多くの人の日常が同様の「妄想」に満たされてゐるだらうと思ふのです。
「妄想」に憑りつかれてゐるとき、私は絶対に正午定着できません。
神様に祈ることもできないし、祈つても良心の声を聞くことはできません。
自分が「妄想」に憑りつかれてゐるのに気がついたとき、私は時々説教者の語る言葉をそのまま即座に真似てみることがある。
説教者が
「神様は二性性相です」
と言えば、私も0.3秒の誤差で
「神様は二性性相です」
と心の中で繰り返す。
説教者の語る言葉が好きでも嫌いでも、そのまま繰り返す。
これをしばらく続けてゐると、説教者の言葉に意識が追随して、だんだんと「妄想」が消えていくのが分かります。
「妄想」はもちろん礼拝の時だけではない。
車を運転してゐても、目では前方だけを凝視しながら、心は大抵そこにないのです。
音楽を流したり講義を聞いたりもする。
過ぎ去る景色も意識的には眺めてゐない。
毎日通る道なら珍しくもないから、尚更です。
そこで、できるなら時々車を止めて、いつもの景色をじつと眺めてみる。
遠くのあの山に咲いているあの花は何の花だらう。
私は心ここにもなくただ道を急いで走つてゐるだけだつたのに、あの花はそんな私を見てどう思つてゐたのだらう。
そんなふうにも考へてみます。
かういふ工夫を自己牧会プログラムでは
「自覚を取り戻す」
と呼ぶのですが、その目的は「妄想」から解放されることです。

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