良心を創造せざるを得なかつた
昨日の記事でお父様のみ言葉について、私なりの言葉を括弧に入れて補ってみました。
それら(統一原理やお父様のみ言葉)は自分の心の声(良心の声)を聞くための手段です。目的ではないのです。
この2行を種にして、み言葉と良心の関係についてもう少し考へてみます。
最近の私は原理講義をしながらも、限界を感じる思ひを払ひ切ることができない。
創造原理が分かり堕落論が分かり復帰原理が分かることが、どれほど意味があるのか。
それを分かつて私の人格はどれほど成長するのか。
自分自身の実感から考へても、み言葉に絶対的な力があるやうに感じられない。
しかしお父様のみ言葉をよく読むと、原理の内容自体は「目的」ではない。
それはあくまでも手段であつて、本当の目的は「良心の声」を聞くことだと言ふのです。
み言葉を学ぶことは必要です。
広く深く学んで、よく理解することは重要です。
それが良心の声を聞くための土台となるからです。
アダムとエバに神様はみ言葉を語つたのでせうか。
「取つて食べてはいけない」
といふみ言葉を何らかの方法で伝へられたかも知れない。
しかしそれは、アダムとエバがそのみ言葉に従順に従ふためではない。
そのみ言葉を2人が自分の中に取り込み、それを手段として自分の中の良心の声を聞けるやうになる。
神様の願ひはそこにあつた。
取つて食べない選択をするか。
取つて食べないで、どのやうに自分の本性を発見し、成長完成の道を行くか。
それは2人が神様のみ言葉に従つて選択実践するのではなく、自らの良心の声を聞き分けてする。
それが神様の考へる「人間の責任分担」ではなかつたでせうか。
なぜかと言へば、人間の責任分担とは神様に干渉されない、神様に従ふのではなく自らの選択と判断で遂行するべきものだからです。
神様から
「取つて食べるな」
と言はれて食べないのであれば、それは神様が干渉されたことになる。
2人はあくまで自分の良心の声によつて「食べない選択」をしてこそ、責任分担を果たしたと言へます。
だから、神様のみ言葉はあくまでも人間の良心を涵養するための手段であり、良心が判断するときの参考にすべきものです。
考へてみると、神様がわざわざ良心といふものをご自身の代身者として創造せざるを得なかつた理由がここにあるやうな気がします。
人間が自分の責任分担を果たすためには、どうしても良心が必要だつたのです。
良心といふのは第二の神だとは言ひながら、神様そのものではなく、かと言つて私自身とも言へない。
しかし、限りなく私に近い存在です。
だから良心の声に従ふことは神様に従ふことではなく、私の主体的な選択と言つていい。
さうすると、良心との関係を作り、その声を聞き、自分の生心が育つて主体的な選択をしていくといふ作業を繰り返す以外に、私も責任分担を果たして自己完成することはできない。
そのやうに思はれてきます。

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