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良心はそれ自体の自由と責任を有する

kitasendo
20190413

以上のことに加えて、私たちは良心が神のある一部分ではなくて、神とは別の人格を持つ存在であることを知らなければならない。
良心は神と同じ性質をもつものであるが、神御自身ではなく、第二の神として神の対象の立場に立っている。いわば、個性真理体のようなものであり、それ自体の自由と責任を有し、その分野においては神も敬意を払い干渉しない。
それゆえ、良心は私たち自身のことについては神よりもよく知り、しかも神よりも先に知るのである。
(『天一国時代を迎えるための成約摂理解説』周藤健)

最近出版された本書において、家庭連合の世界的講師周藤先生が、
「良心も個性真理体(のようなもの)」
と言っておられることに注目します。

良心はそれ自体の自由と責任も有しているので、神様も干渉されない。

このやうな良心観は、創造原理での説明と趣きがだいぶ違ふけれども、最近私が考へ至つた良心観とはほぼ一致するので、少し自信を与へられた気がします。

さらに後のページで周藤先生は、
「良心は内在する神であり、私たちはこの良心に祈ることもできる」
と言っておられる。

しかしここはもう少しはつきりと、
「まづ良心に祈るべきである」
と言つたほうがいいのではないかと思ひます。

神様ご自身が良心に対してかくまで大きな使命を与へ貴重視しておられるのですから、その良心を無視して神様に直接祈るといふのは、むしろ問題だとも言へる。

良心についてはこれまで個性真理体だとも考へられず、自由と責任を有してゐるとも見做されなかつたため、随分と等閑視されてきたやうな気がします。
良心に本来の位置に立つてもらうためにも、こんにち良心はもつと重要視され尊重されて然るべきでせう。

ところがさうなると、良心の願う基準は高い。
一方、我々の現実は低い。
このギャップに橋をいかに架けるかというふことについて、周藤先生は2つの方法を提示しておられます。

① 良心を強める方法
② 肉心を弱める方法

これはいづれもお父様直伝の方法なので信頼できる方法だとは思ふものの、行ふはなかなか難い。
特に2番目は至難に近い気がする。

これは肉身の欲望(食欲、睡眠欲、性欲)を良心と理性の力で主管していく、所謂修行、修道の道です。

お父様は、
「この闘いを3年から5年続けることによつて、良心の声の通りに生きる習慣性を体恤できる」
と教へておられるが、本当だらうかと思ふ。

良心の力は容易に強まらないし、肉身の欲望はあまりに荒々しい。
歴代の修行者たちもこのため大部分が途中で脱落したのではないか。

しかし最近になつて少し希望を感じるのは、今や我々は随分明るい時代を迎えたのではないかといふ気がすることです。
昔のやうに、それでなくても可哀さうなカインに対して、傲慢なアベルに屈伏せよといふ、さういふ過酷な方法で蕩減条件を立てるといふ時代は過ぎ去りつつある。

相手に無理やり頭を下げて立てられる蕩減条件よりも、本当の自分に近づくことによつて立てられる条件のほうがよほど大きい。
さういふことが感じられ、見えてくる時代。

私にはそんな感じが日に日に強くなつてゐます。
良心の役割が本当に大きい時代です。

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はちみつ

最近、良心の話題が多いようですが、実生活に直結するため大変参考になります。今後も期待しております。

>可哀さうなカインに対して、傲慢なアベルに屈伏せよといふ、さういふ過酷な方法で蕩減条件を立てるといふ時代は過ぎ去りつつある。


教会の方々が傲慢だとは思いません。
尊敬はしておりましたが、自分はあの様になりたくないと強く感じていました。
「私がアベルだから、私の意見が常に正しい」「アベルに絶対従順しなきゃいけないでしょ!?」と他人の理解に努めず、頭から否定するところなど。
『この人達に何を言っても受け入れてもらえない。』脱会した大半の人の気持ちです。
心に無理を押し付けるので、カインは途中で耐えられなくなるのです。

2019年04月14日 (Sun) 10:10
kitasendo
Admin:kitasendo