一切否定しない本当の私
神は自ら創造された原理的な存在とその行動のみを干渉されるために、犯罪行為や地獄のような、ご自分が創造されなかった非原理的な存在や行動には干渉し給わないのである。
神がもしある存在や行動に対して干渉し給うならば、干渉を受けるその存在や行動は、既に、創造の価値が賦与され、原理的なものとして認定されたもののような結果をもたらすのである。
(「原理講論」堕落論第6節)
干渉すれば堕落を止められたであらうに、それができないとは、神様といふ方はあまりにも不自由だなといふ感じもする。
干渉しないことによつて一体何を守らうとされたのでせうか。
「独り神のみ創造主であらせられるため」
と説明されてゐます。
神様はご自分だけが創造主であるといふ立場を守るために人間の堕落行為に干渉されなかつたと読み取れます。
創造主といふ立場がそれほどに大切でせうか。
そもそも「干渉する」とはどういふことか、考へてみる。
干渉するとは、干渉するその相手を「否定する」といふことです。
なぜかと言へば、
「あなたが今しようとしてゐることは間違つてゐる。だから私が強制的にやめさせる」
といふのが干渉の動機だからです。
ところがこのやうな動機で干渉してしまふと、結果的にその相手のしようとしてゐることを認めることになり、さらにはその相手自身の価値をも認めてしまふことになる。
つまり干渉するといふことは、意外にも、その意図とは反対に相手の存在を容認してしまふことになるのです。
だから神様は認めたくない相手には干渉されない。
そしてそのやうに振る舞つてこそ、神様がご自分だけが真の創造主であるといふ立場を守ることができるのです。
これをちょつと我々の立場に沿つて考へてみます。
私にとつて嫌な人、その考へ方や行動の仕方を受け入れたくない人がゐるとします。
さういふとき、我々はその人を否定したくなる。
「なぜあなたはさういふ考へ方をするのか。それはおかしい。私の言ふことを聞きなさい」
と言ひたくなる。
さう言つたとしても相手が聞き容れてくれない場合、私はその人を意識の外に排除したくなる。
つき合ひたくもなく、私の願ひ通りにならないので、恨みさへ抱くこともあり得ます。
さうなると最も苦しいのは誰かといふと、相手を否定する私自身なのです。
恨みを抱き、許せなくて苦しむのは、私自身です。
どうしたらいいのか。
相手を一切否定しないことです。
それが神様のやり方です。
否定(干渉)しなければ、相手は変はつてくれないのではないか。
さういふ憂ひがあります。
しかし、相手を変へようとしないでいい。
神様が悪に干渉しないのはご自身だけが「真の創造主」であるためであつたとおなじやうに、相手を否定しないことによつてのみ私は「本当の私」であることが可能になります。
神様は堕落行為や地獄のやうなものに干渉しない(否定しない)ことによつて、それらを嫌ひ、呪ひでもされたのでせうか。
さうではないだらうと思ひます。
真の創造主なら、彼らのために祝福を祈られた。
干渉しない(否定しない)立場から、ご自分が持つておられる真実の愛で彼らが本来の姿に戻ることを祈り、できるすべてのことをしようと心に決められた。
それ以外に、神様が真の創造主であることはできないと思へます。
我々も相手を否定して自分が苦しむやうなことはやめよう。
私はどこまでも本当の私であることを目指し、相手の人生に神様の祝福が臨むことを祈り行動しよう。
先日の記事で紹介したファリド・アフマドさんの姿がまさにそれです。
彼は決して被害者にならうとせず、本当の自分、真の創造主にならうとしてゐます。

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