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肉心で考へると苦痛を感じる

kitasendo
20190406 

私が人を疑ふとき、私は苦痛を感じます
私が人を審判するとき、私は堪えられなくなります

これはお父様が16歳の頃に書いたとされる「栄光の王冠」といふ詩の冒頭の一節です。
私はこれまでこの部分の意味をあまり深く考へてみたことがなかつた。

私が人を疑うと、なぜ私の中に苦痛が生じるのか。
私が人を審判すると、なぜ私は苦しくなるのか。

最近、私がしばしば体験するある感覚を通して、この意味をおぼろげに察するやうになりました。

私が人を疑ふ、あるいは勘繰る、嫌ふなど、その人の悪い(マイナスの)面を見るやうになると、気分が落ち込み、肉体的には疲労感が大きくなる。

人を審判するといふのは、
「自分の考へは正しい」
といふ立場から相手を批判することですが、さういふときも同じやうに気持ちが塞ぐのです。

以前から気分が落ち込んだり体が疲れを感じたりするといふことはもちろんあつたのですが、それがかういふ自分の心の持ちやうと密接に関連してゐるといふふうには、あまり自覚しなかつた。

それを最近自覚するやうになつたのは、
「人を疑ふとか嫌ふとか悪く思ふのは、私の肉心に傾いた思ひのやうだ」
といふふうに感じるからです。

人を見るとき、知らず知らずのうちに肉心で判断することが多い。
過去の体験と記憶によつて、固定観念でその人を見る。

「この人はこれまでかうだつたから、今もそのままだ。これからはもつと悪くなるかも知れない」
などと、つい考へる。

「今日はどうも気分がすぐれない。眠気もあるなあ」
と感じるとき、自分の思ひを振り返つてみると、大抵かういふ肉心の考へに支配されてゐることに気づくのです。

反対に、さういふ固定観念を一生懸命手放さうと努力してゐるときは、気分が春のそよ風のやうに爽やかで、体をあれこれ動かしてもあまり疲れを感じない。

かういふことを何度も体験してみると、
「肉心を中心として思ふときは生力要素が滞り、生心を中心として思ふときは生力要素がよく流れるのだな」
といふことが合点されてくるのです。

人を疑ふ。
人を審判(批判)する。

さういふことをすればするほど、生力要素が途切れて苦しむのは結局自分自身なのです。

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Admin:kitasendo