肉心よ、有り難う
原理講論の「アダム家庭」実体基台の項に、カインとアベルの献祭に相通じる実例がいくつか挙げられる中で、とても重要な実例がある。
我々の個体の場合を考へて見ると、善を指向する心はアベルの立場であり、罪の律法に仕へる体はカインの立場である。
したがつて、体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私たちの個体は善化されない。
これをより精密に言ひ換へれば、「善を指向する心」とは「生心」のことであり、「罪の律法に仕へる体」とは「肉心」のことです。
つまり、生心がアベルの立場、肉心がカインの立場に立つ。
本来なら生心が主体、肉心が対象といふべきでせうが、復帰摂理上はアベルとカインといふ表現になります。
私たちの個体が善化されるためには肉心が生心に従順に屈伏しなければならないのに、現実には肉心が生心に反逆することが多いために個体は悪化してしまふ。
これも言ひ換へれば、肉心の主張が生心の思ひを圧倒してしまふために生心の願ひ通りに生きられないといふことです。
しかしかと言つて、肉心は決して悪辣な敵ではない。
それは、カインが長男といふ立場のゆゑにサタン側に立てられたけれども、神様はむしろカインのほうを心にかけ心配されたといふ聖書の記録を見るとよく分かります。
我々は肉心の声に負けてはいけないが、かと言つて敵対視すべきではない。
むしろ愛してあげなければいけないと思ふ。
力で押さえつけるのではなく、愛で屈服しなければならないと思ふ。
それで私自身は自己牧会プログラムを参考にしながら、例えば、
「〇〇と思ふ私は本当の私とは何の関係もないので、この思ひを手放します」
と言つたあと、
「ありがたう」
と付け加へるやうにします。
さうすると、私自身何だかとても心が落ち着くのです。
肉心は善意なのです。
自分を守るために、良かれと思つて一生懸命に訴へる。
しかし堕落性に絡まれてゐるために、結果として神様の意図に反する主張になることが多いのです。
それでも、その主張は私がいかに堕落性に拘束されているかといふ事実を教へてくれるといふ意味において、実に有り難い。
だから、その主張は手放さなければならないものでありながら、手放すときには、
「自覚させてくれて有り難う」
と感謝する。
それが生心から肉心への「愛」の表現だと思ふのです。
そしてそこに蕩減条件も成立する。
これを忍耐強く繰り返してこそ、私といふ個体は少しづつ、しかし着実に善化されると考へてゐます。

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