ノアの家庭の習慣的な生活
ノアの家族は洪水審判で贖罪されたので、感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。
自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、父の心情を直視して立ち上がるノアになっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。
(『文鮮明先生のみ言に学ぶ統一原理(後編)』)
先日ノア家庭の講義をした時に引用したみ言葉です。
ここでお父様は「感謝の生活」と「習慣的な生活」を対にして語つておられます。
普通に考へれば「感謝の生活」の反対は「不平不満の生活」とでも言ふべきところでせうから、「習慣的な生活」とは即ち「感謝のない生活」といふことになります。
このすぐ後に、
「いつも新たに接するノアとなり…」
と言つておられます。
ノアがもしこのやうになつてゐれば、「習慣的な生活」にはならなかつたでせう。
なぜなら、「習慣的な生活」は、
「今日は特別に新しいことはなく、昨日と同じ生活の延長に過ぎない生活」
だからです。
そしてそのやうな生活になれば、感謝はなくなる。
「今日は昨日と同じであり、昨日まであつたことは今日もあり、昨日までできたことは今日もできる」
と思ふからです。
さうすると「感謝の生活」は「毎日が新しい生活」といふことになります。
今日は昨日までとは違う新しい日であり、昨日まであつたことが今日もあるとすればそれは奇跡的なことであり、昨日までできたことが今日もできるといふのもまた奇跡的です。
そのやうに毎日が奇跡の連続であるとすれば、そこにはどうも神様の愛と力が働いてゐるに違ひない。
毎日そのやうな神様との出会ひがあれば、自ずと感謝の心が生まれてくるでせう。
ノアとその家族は、あの大洪水といふ人生のクライマックスを乗り越えたのち、なぜか「感謝」のない「習慣的な生活」に戻つてしまつた。
それで次男ハムも習慣的な目で父を見るし、習慣的な心で行動した。
これは難しい問題です。
ノア家庭にだけ問われることではなく、うつかりすれば我々すべてがすぐに陥る罠のやうなものです。
講義の最後で、この問題を肉心と生心の関係で分析してみました。
それが冒頭の図です。
過去の体験と記憶から発想する肉心は、どうしても習慣的になる要素を内包してゐます。
日々を新しく感じるのは生心しかありません。

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