私は容疑者を許す
先月15日、ニュージーランド南島のクライストチャーチで発生したモスク(イスラム礼拝所)の銃乱射事件。
50人が銃弾を浴びて死亡するといふ凄惨な出来事で、多くのメディアがその詳細を報じた中に、看過できない一つの証があります。
その事件で妻が犠牲になった男性、ファリド・アフマド(59)さんが取材陣に語つた言葉。
「私は容疑者を許すし、一人の人間として愛する。彼にさう伝へてほしい」
私の記憶は曖昧だが、これまでにも似たやうな状況で同じ趣旨のことを語る人が、稀におられる。
アフマドさんはイスラム教徒。
以前の人はクリスチャンもゐたし、中東のイスラム教徒もゐたと記憶します。
アフマドさんの心の内がどのやうなものか、私には推測するほかにないものの、このやうな状況で
「許す、愛する」
といふ極限の態度を選択することに、私は人間の本性の深みを見る思ひがするのです。
自分の肉親が無残に、無差別に殺されて、その加害者を許すといふことは普通にはできないと思ふ。
実際、日本国内でも頻繁に悲惨な殺人事件は起きてゐて、被害者の遺族が吐露する言葉はそのほとんどが、
「一生許すことはできない」
といふものです。
そしてそれを聞く我々はおそらくみんなが、
「それはさうだ。冷血な殺人鬼を許せるはずがない」
と思ふに違ひない。
許せるはずがないばかりか、
「許すべきではない」
とさへ考へるでせう。
殺人鬼を許せば、また何をしでかすか分からない。
社会の秩序を保つこともできない。
さういふ輩は終身刑にして刑務所にぶち込むか、できれば早々に死刑にでもするのがよい。
それが普通の感覚のやうに思へます。
ところがアフマドさんは、
「人生観について考へ直すやう勧めたい。寛大な心を持ち、他者を思ひやつて助け、人類を破壊するのではなく救ふ人になれる大きな可能性が、彼自身の中にあると伝へたい」
とも話してゐる。
報道によれば、容疑者はかなりごりごりの白人至上主義者のやうです。
そんな男が自分の人生観を考へ直すだらうか。
「アフマドさん、あなたの考へ、あなたの信仰はあまりにナイーブ過ぎる。そんなことでは安全な社会は作れない。殺人鬼には警察力を総動員し、似たやうな思想の持ち主を徹底的に探し出して、まとめて撲滅するのが最善の方法ではないか」
さういふ思ひが私の中からしきりに起こります。
実際、警察が動かなければ今回の事態は収拾できなかつた。
しかし、と同時に、アフマドさんのあの態度をどうしても無視することができないのです。
アフマドさんは客観的に見れば可哀さうな被害者でせうが、彼自身は自分を被害者の位置に立てようとしてゐない。
「私は被害者にはならない。許さうとする主体者だ」
と考へてゐるやうに思へます。
「決して許せない」
と考へる人は、生涯を被害者として生きることを選択した人だとも言へます。
そして、許せないといふ気持ちを一生抱へながら、その気持ちのゆえに一生苦しみ続けるのです。
被害を受けたことだけでも苦しいのに、その上、許せない気持ちのゆえにさらに苦しむ。
私の肉心は決して許せない。
それは私を「保護する」ことが役目だからです。
しかし私の生心は許すことを選択したいと考へるのではないだらうか。

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