固定観念を手放す
「今自分が感じて(思つて、考へて)ゐることは本当の私とは何の関係もないので、手放します。有り難う」
事あるごとにこの言葉を心の内で繰り返す内的作業を続けて1ヶ月近くになる。
この作業を
「固定観念を手放す」
と呼んでゐます。
冒頭のやり取りは、自分の中の生心と肉心との間で交はされてゐるものです。
「今自分が感じて(思つて、考へて)ゐること」
は、その大半が肉心の内容と思はれます。
肉心は私の生存、繁殖、保護のために一生懸命努力してくれてゐるのですが、残念ながらその思ひの大半は堕落性といふフィルターを通ることで、歪んでゐる。
それで、
「今思つてゐることは、本当(創造本性)の私とは関係ない」
と言つて手放すのです。
しかし、私の中にさういふ歪んだ思ひがあるといふ事実を教へてくれ、それによつて蕩減条件を立てるべき必要性に気づかせてくれたことに対して、
「有り難う」
とお礼を言ふ。
この作業は自分の中の肉心を浄化することで、謂はば良心の声を聞くための地ならしをするやうな作業だと考へてゐます。
この作業を続けてみて、いくつか感じることがあります。
まづ一つは、生活がよりスムーズに流れ始めたやうに感じられることです。
頼みごとが予想よりもうまくいく。
駐車場で車がぶつかりさうになつてひやりとしたとき、相手の運転手がとても良い人だつた。
多く動いても、あまり疲れない。
心の拘りが減ることと目の前の障害物が減ることとは、不思議と連動してゐるやうに思はれます。
これは嬉しいことですが、反対に辛いこともある。
肉心の拘りが強いことは、一度や二度の作業ではその声を決してひそめないことです。
「私の言ふことは絶対に正しいから、聞きなさい」
と主張してやまない。
よく見ると、肉心はその拘りを捨てることをひどく恐れてゐるやうにも思へます。
例えば、ある人からひどい言葉をかけられて傷ついたといふ記憶が肉心にあると、
「あの言葉を絶対に忘れてはいけない。その人を恨むのはあなたの権利だ。それを忘れることはあなたの敗北だ」
などと、生心に向けて主張し続けるのです。
肉心のこの主張は、私の中であまりに強く響き渡るので、それを鎮めるのは容易いことではありません。
抑えようとすればするほど、むきになつたやうに声は却つて大きくなります。
ところがよく見ると、肉心が
「傷つけられたら恨むのは当然の権利だ」
と主張する裏には、恨むことをやめ、許さうとすることへの一種の「恐れ」が潜んでゐるやうに思へるのです。
恨むことをやめ、許したりしたら、相手はもつとひどく接するのではないか。
結局自分が相手に立ち向かへない弱者、敗北者になるのではないか。
さういふ「恐れ」がある。
だから自分が生存・繁殖(発展)するためには恨みを捨ててはいけない、許してはいけないと思ふ。
肉心はどうも、恨みや拘りを自分とほとんど同一視してゐるやうにさへ思へます。
(この内容は「自己牧会プログラム」を参考にしてゐます)

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