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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

神様の「痛い心」

2019/03/16
訓読三昧 0
20190315

旧約時代は、神がアブラハムを通してご自身の痛い心を表現されました。
新約時代は、イエス様を通して神の痛みを解く方法を見せてくださいました。

李耀翰牧師の説教「神の苦痛」のなかに、この一節があります。

アブラハムの生涯を見ると、神様に連れ回された人生だつたと言つても過言ではない。
生まれ故郷のウルを離れてはるか遠いハランヘ移り、さらにそこからカナンへ南下する。
そこで飢饉に見舞はれるや、食料を求めてエジプトに赴くと、妻を王に奪はわれる。

原理講論の説明では、昔エデンの園でエバがアダムと婚約中に天使長に奪はれたことを蕩減復帰しなければならなかつたといふことになつてゐます。
しかしもう少し深読みしてみると、これは神様の「痛い心」の表現だつたかも知れない。
エバを奪はれたのは表向きはアダムのやうに見えながら、実は神様ご自身であつたとも考へられます。

さらに一人息子イサクがまだ幼かつた頃、神様は、
「お前の息子を私のために捧げてくれるか」
とアブラハムに願はれました。

エデンの園で一人息子アダムを失つた神様にとつて、この命令もまた神様の「痛い心」の表現だつたと考へられます。

アブラハムが神様の願ひ通りに斧を振り下ろさうとした瞬間、
「お前の心が今分かつた。お前は私の心の痛みの同伴者であり、私は初めて理解者を得た」
と告白されました。

摂理の中心人物であるアブラハムには、このやうに神様は摂理に沿つた形でご自身の「痛い心」を暗示的に表現されたと見ることが確かにできさうです。
それを示された側の人間は、その痛みを解いてあげるべき責任をゆだねられてゐる。
その解き方を天下に見せた代表者がイエス様であつたといふことです。

ところで、我々の人生にも神様の「痛い心」が表現されることがあるのでせうか。
何気なく生きてゐれば気がつかなくても、意識的に見つめると人生の至る所に「痛い心」が潜んでゐるのを発見できるやうに思ひます。

例えば、努力したのに結果は思ひ通りに出ない。
誠意をもって接したつもりなのに、裏切られた。

さういふとき、我々はそれを自分自身の「痛み」だと感じて、落胆したり、相手を恨んだりするといふのが通常でせう。
しかしその「痛み」が実は神様の「痛い心」の表現だと気がついたら、どうなるでせうか。

神様はそもそもなぜご自身の「痛い心」を表現しようとされるのでせうか。

150億年かけて造つた世界が最後に自分の手を離れてしまつたやうな落胆を味はつた。
最愛の息子と心が通じなくなり、最愛の娘、最愛の妻が奪はれてしまつた。
そのあまりに強い痛みを、神様はご自身では癒すことができないのでせう。
だから表現せざるを得ない。

表現したものを人間が感じ取つて、
「その痛みは私が担当しませう。私が癒してあげませう」
と名乗り出て来るのを待たざるを得ない。

名乗り出た代表者がイエス様でした。
イエス様の人生は様々な痛みの連続でしたが、それらをすべて神様の「痛い心」として受け止めようとされた。
だから我々はそのイエス様の生き方に学ぶ必要がある。

十字架の死の痛みを味はふ境地までは行き得ないとしても、痛みを受け止める仕方だけはイエス様に習ふ。

「有り難うございます。感謝します。摂理される中心人物として私をお使ひください」

それをするにつれて、神様の「痛い心」を癒すだけでなく、我々が背負つてきた蕩減の内容までも消去することができる。
さうだとすれば、本当に有り難いことです。

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