本当に済まないことをした
50代から70代にかけては市政にも関はり、地元の名士とも言へる人だが、80に近くなつた今では引退して隠居生活をしておられる。
久しぶりで話を伺ひに行くと、しみじみと言はれることがあるのです。
自宅には今16歳になる老犬が1匹ゐる。
16年前、地元の新聞に「犬の赤ちゃんお譲りします」といふ記事を見つけて、150キロも離れた町までわざわざもらひに行つた犬です。
「あの時私がもらつてやらなかつたら、保健所に送られてすぐに殺処分されたのは間違ひない」
もらつてきて以来16年間、欠かさず朝夕散歩をさせながら育てた。
犬も若いうちは土手を走り橋を渡つて、随分長い散歩をしたが、今ではちょつと歩いて用を足したらすぐに帰らうとする。
駐車場の中に作られた犬小屋を見せてもらふと、老犬は体を丸めて静かに寝てゐます。
声をかけるとうつすら目を開けるやうだが、目もあまりよく見えていない様子です。
愛犬家の多い今の時代にこんな犬の話は別に珍しくもないでせうが、今の犬をもらつて飼うやうになつた動機を、こんなふうに話されるのです。
30代の頃だつたか、犬を飼つてゐた。
ところが、その犬に子どもが生まれ、飼ふのが負担になつた。
なかなかもらつてくれる人もなく、ある程度成長した時、仕方なく1匹を捨てに行つた。
なるべく餌が多さうな海の近くに連れて行き、そこでひもを外して置き去りにした。
帰らうとすると、犬のほうは事情が分からないからついて来ようとする。
その時の犬の姿が目に焼き付いて、今でも忘れられないといふのです。
「あの犬があれから何年生きたか知らない。私にすれば、今の犬を飼ふやうになつたのは、その時の犬の償ひの気持ちだつたんだね」
市政に関はつてばりばり活躍してきたやうな大の男の心の中に数十年間消えずにあつたのは、
「あの時捨ててしまつた1匹の犬に、本当に済まないことをした」
といふ思ひだつたのです。
この告白を聞きながら、
「これが人の心の真実だな」
といふ気がしました。
実は私にも犬に関しては、
「申し訳ない」
といふ体験の記憶があります。
それを今でもやはり忘れることができない。
我が家の愛犬も今や11歳になりますが、この犬も私に償ひのチャンスを与へくれてゐるといふことに思ひ至ります。

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