情報はなるべく収集しないのがいい
AさんとBさんがCさんについて話す場面を考へます。
Cさんがどんな人かについてはAさんは知っているが、Bさんは知らない。
それでBさんはAさんに尋ねる。
「Cさんて、どんな人ですか?」
さう聞かれて、Aさんはこれまで自分がCさんと接して来て体験したことから、感じてゐることを話す。
「Cさんはこんな時にはこんな判断をして、こんな行動をする。かういふ長所がある反面、かういふ欠点もある…云々かんぬん」
それを聞いて、Bさんは
「Cさんといふ人はかういふ人なんだらうな」
といふイメージを頭の中に描く。
しかし、そのイメージはAさんが提供してくれたデータに基づいてゐるので、Aさんが持つてゐるCさん像に依存してゐるのです。
すると問題は、Aさんの持つCさん像がどれほど正しいかといふことです。
かういふ場面はよくあります。
ある部長が〇〇部から△△部へ異動するとなれば、△△部で働く部員たちは〇〇部の部員に部長の情報を求める。
部長は部下にどういふ態度で接する人なのか。
厳しいのか、優しいのか。
大雑把な人なのか、細かいことを気にする人なのか。
それを知つて心の準備をし、最初からうまく対応しようと考へる。
ところが私は、かういふ情報はなるべく収集しないはうが得策だと思ふ。
なぜかといふと、この種の情報は当てにならないばかりか、初期情報として後々まで不当に大きな影響力を持つてしまふからです。
つまりこの種の情報はあまり役に立たない「先入観」を形成する。
「この人はかういふ人だ」
といふ先入観を持つてその人を迎へるやうになると、澄んだ目を持つてその人を見るのがとても難しくなるのです。
情報が当てにならないといふのは、大抵の人は自分のフィルターを通して相手を見てゐるからです。
バイアスと言つてもいいと思ひますが、これは相当に強い。
しかも、本人にはあまりその自覚がない。
「あの人に対する私の見方は正しい。私の観察眼は間違ひない」
と自負してゐます。
このやうな観察は主として我々の「肉心」がしてゐると、私は考へてゐます。
肉心は肉体の生存、繁殖、保護に責任を持つてゐるので、自分の周囲を常に詳細入念に観察し、そのデータをもとに対応を策定します。
ところがこの肉心は今や、堕落して堕落性の絡められ、悪神の格好の侵入経路となつてゐる。
自己中心性の根源地とでも言ふべきところなのです。
そこには、妬みもあれば自己保身もあり、優越感も劣等感も混在します。
ここで固定観念が作られ、広く常識を形成します。
我々はなるべく人の話を聞かず、聞いても信用せず、自分の目を澄んだものにする努力をして、肉心の声ではなく良心の声を聞くやうにする。
それが最善ではないかと思ふのです。

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