神様はすべてを忘れる
自己牧会プログラムの中に、
「思ひを手放す」
といふワークがあります。
「真の愛は与へて忘れる愛である」
といふお父様の有名なみ言葉がある。
ならば当然、神様は与へて忘れる方だといふことになります。
記憶してゐたら、次に与へることが難しくなる。
忘れることによつて与へてもまた与へ、100%以上を与へることができる。
さうすることで自分よりももつと素晴らしい対象を創造することが可能になる。
この話は理屈も通つてゐます。
しかし、
「神様はどのやうにして忘れるのだらう」
と考へてみることがあります。
神様のことは分かりにくいので、神様の似姿に創造されたといふ我々自身の立場で考へてみます。
やつたことがうまくいけば、誇らしい。
尽くしてあげたことに感謝されれば、嬉しい。
さういふことは、いつまでも覚えてゐたい。
それは悪くないやうに思へます。
反対に、失敗したこと、傷ついたことは早く忘れたい。
しかし、これはなかなか忘れられない。
嬉しいこと、誇らしいことはいつまでも忘れない。
嫌なこと、傷ついたことはすぐに忘れる。
それがいいやうに思へます。
しかし、案外さうではないかも知れない。
嫌なことも忘れるが、嬉しいことも忘れる。
どんなこともすぐに忘れる。
それが最も良いことではないかと思ひます。
嬉しいことをなぜ忘れたほうがいいのか。
それを覚えてゐると、そこで満足してしまつて、もつと嬉しいことに挑めなくなるのです。
だからどんなことも次々惜しみなく忘れる。
言葉を換えれば、手放すのです。
「これはもう、私には要りません。私とは無関係です」
と言つて手放す。
これに当てはめて神様のことを考へれば、神様にも理想があり、創造の過程で思ひ通りにうまくできたこともあらうし、うまい具合にいかないこともあつたかも知れない。
しかしいづれにしても、もつとよいものを創造しようとするなら、それまでの努力や苦労だけでなく喜びまでも次々に忘れていく。
そしてあたかも新たな神様になつたやうな気持ちで、もつとレベルの高い挑戦をしていく。
そんなふうにして、最高傑作の人間の姿にまで到達されたのではないか。
ところがさらに、その人間が理想から離れていつたあとも、神様はその苦痛と悲しみを忘れようとされた。
さうしないと、復帰の摂理を続けることができなかつたでせう。
これは神様についての勝手な想像ですが、我々について考へてみると、本来の心ではない、堕落性がある。
これが厄介なことです。
好きも嫌いも、喜びも悲しみも、それらすべてに堕落性のフィルターがかかつてゐると思はれるのです。
「私はこれが好きで、あれは嫌ひだ。これは正しいと思ひ、あれは間違つてゐると思ふ」
と我々は日常的に思ひ続けています。
しかしそれは「本当の私」が思つてゐることなのかどうか、自分にも分からない。
むしろ、私には過去の体験や習い覚えた知識などのフィルターを通して思つてゐること(思ひ込み)が多い、といふより、ほとんどすべてさうではないかと思ふのです。
だから思ひきつて、どんな思ひも忘れる。
手放してみる。
どんどん手放して、自分のものが何もないと思へるほどになるまで手放してみる。
「ゼロになつたところに神様がおられる、そこに良心もゐる」
といふ考へはおかしいものではないと思ひます。
神様も忘れて忘れてゼロにならうとする方であるとするなら。

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