縦的な生心、横的な肉心
「意識を、今、ここに置く」
といふ良心発見の方法を見つけるのに、自己牧会プログラムの開発者は随分苦労されたやうです。
この方法を言ひ換へると、
「自覚を取り戻す」
とも言へます。
お父様は、
「心は縦的な私、体は横的な私」
とも言はれます。
このみ言葉は分かりにくいのですが、「心」を「生心」、「体」を「肉心」と言ひ換へてもいいでせう。
すると、生心が縦的と言ふ意味は、
「生心は常に神様の垂直の真下にゐて、影のない正午定着の位置に留まらうとする」
さういふ本性があるのだと考へられます。
ところが肉心は横的なので専ら自分の考へを主張し、結果として、生心を正午定着の位置からずらし、垂直の角度を変へてしまふことになる。
これが「自己中心」とか「雑念」などといふ現象として現れるのです。
実際祈祷や瞑想をしようとすると、かういふ体験をします。
集中しようとすると、しきりに雑念が起こる。
「夕方の用事はどうしたらいいか」
「あの人に連絡取るのを忘れてた」
などといふことを急に思ひ出したりして、意識が過去に飛び未来に飛びしてしまふのです。
これが、
「意識が、今、ここにない状態」
です。
このやうな状態の時に、良心は生心に呼びかけることが難しい。
生心にしてみれば、100のうち99くらいの声を肉心から聞いてゐるので、残りのわずかな隙間に良心がタイミングよく呼びかけるしかないのです。
良心により大きなチャンスを与へるために、意識を、今、ここに置かねばならないのですが、それを「自覚を取り戻す」と言つてゐます。
これはつまり、今まさに自分が見てゐるもの、聞いてゐるもの、触つてゐるものを自覚するといふことです。
自分をよく見ると、自覚を持たないままで過ごしてゐることが意外と多いのに気づきます。
テレビを観ながら食事をする。
喉を通つたはずのご飯の味もおかずの色合いも、存分に味はつてゐないので、さて今夜は何を食べたのだつけと思ひ出せないことが一再ではない。
家族の話を聞いてゐるのに、今日の仕事の失敗や明日の予約の心配に心が奪はれる。
目の前の家族の表情、その表情に隠れてゐる感情をじつくり見て感じとつてゐない。
このやうな心の状態を
「妄想」
と言ひます。
妄想の中にゐるとき、良心は我々を訪ねて来られない。
それはごく当然のことだと思はれます。

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