焦らなくていいよ
良心について、原理講論は多くを語つてゐません。
わずかに創造原理第2節では授受作用の観点から、
「良心は神様の対象の立場で授受作用し、良心作用の力が生じる」
と論じてゐる。
そして同じ創造原理の第6節では、
「神様を中心として生心と肉心が授受作用してできる作用体を良心と呼ぶ」
と規定してゐる。
このやうな説明をみると、良心といふのは「私の心」といふ感じがします。
ところがお父様の直接の説明を聞くと、だいぶ趣きが違ふのです。
一生を生きていきながら、最も親しい先生であるこの「良心」に、「私は今、正しく生きているか?」といつも尋ねなければなりません。
良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。
(『平和を愛する世界人として』)
この説明では、良心は「私の先生」であり「私の主人」といふ立場です。
「私」とは別人格として存在する意識体のやうであり、私が尋ねれば答へてくれる有り難い存在です。
自己牧会プログラムではこの良心をとても重要視します。
良心はこのプログラムの土台をなすものだと言つてもいい。
このプログラムが目指すところは、神の三大祝福を現実の私の生活を通して成就しようといふことです。
そのプロセスの第一段階で良心との親密で良好な関係を築くことを避けて通ることはできません。
お父様は
「誰でも良心の声を聞くことができる」
と保証してくださつてゐますが、無条件的ではない。
「心を磨き、生涯親しく過ごす」
といふ不断の努力が必須です。
さうではあつても、
「誰でも」
と言つておられるのは、とても希望的です。
そして実際、プログラムの実践者の証の中には、
「良心の声を聞いた」
といふ体験談が数多くある。
どんなふうに聞こえて来るのか。
セミナーで聞いた証の一つを紹介してみます。
ある人がプログラムを学んでみたものの、良心の声など聞きたくないと思つた。
「どうせ、実行の難しいハイレベルの要求をしてくるんでせう。それに、聞こえてきたとしても、それが本当に良心の声かどうか、どうやつて分かりますか?」
否定的な気持ちだつたのですが、ある時ふと尋ねてみる気になつた。
どこかに向かつて車を運転してゐた時のことです。
T字路に差し掛かつた。
どちらから廻つても目的地には行けるが、どちらが近いか分からない。
そこで、
「右に廻つたほうが早いですか? それとも左が早いですか?」
と尋ねてみた。
すると、予想もしない速さで、しかも予想もしない答えが返つてきたのです。
「焦らなくていいよ。事故に気をつけて」
それを聞いて、彼はびつくりした。
自分の中からはこの答へは絶対に生まれない。
自分が聞いて自分が答へるなら、「右」か「左」かどちらかをきつと答へるはずだからです。
それで彼は、
「良心の声かどうか、少なくとも自分の意識的な答へではない」
と思つた。
それ以来、彼は折々良心に尋ねてみるといふ習慣を身につけるやうになつたといふのです。
かういふ体験談を聞くと、
「さういふことなら、私にも良心の声を聞いた体験がいくつもあるな」
と思ひ至ることがあります。
ところが、ここで一つ気になることがある。
もし声が聞こえてきたとして、
「これは本当に良心の声なのか」
といふことをどうやつて確認するのか、といふことです。

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