折々夢に妻がやつて来るが
折々夢に妻がやつて来る。
ところが夢に出てくる妻は大抵、病気がいまだ治癒してゐないのです。
乳がんが分かってからおよそ2年8ケ月の治療生活を送ったのちに逝つたので、妻との最後の記憶はどうしてもその病気にまつわつてゐます。
しかしそれはあくまで体の病気であつて、その厄介な体を脱いだのちには、私の信じるところ、病気からも解放されたはずなのです。
それなのに、夢で訪ねてくる妻が相変はらずその病気のままなのは、一体どういふことなのだらう。
変だなと思ふ。
最も近い夢の中でも、私の知り合いの何人かがやつて来て、
「仕事をやめてでもあなたの奥さんの治療を手伝いたいといふ人がゐるんですよ」
と励ましてくれる場面がありました。
夢の中の妻は今の妻の実体ではなく、ただ私の記憶と心の中の反映に過ぎないのだらうか。
さうも思へない理由があります。
夢の中の妻はあまりに実感的なことが多いのです。
手をつなぎ、体に触れると、その感触は肉体で実際に触れたと同じやうな、ある時にはそれ以上の感触として、目が覚めた後でもまざまざと残つてゐることが再三ではない。
言葉のやり取りはあまりないものの、一言二言の言葉、そしてそのときの表情や仕草も実感を持つて伝はつてくるのです。
夢の妻が彼女の霊的実体だとすると、いまだもつて病気を抱へたままといふのが腑に落ちない。
それで考へてみると、彼女は私の記憶を通して現れる。
霊的実体といふのはそれに触れる人(地上人)の心の枠組みから、どうしても自由ではないのかも知れない。
私がいつまでも、
「彼女は病気で苦しんで逝つた」
と思ひ続けてゐる限り、彼女は私の前にそのやうな姿をもつて現れざるを得ない。
彼女は私の記憶に拘束されてゐる。
だから彼女が完全に病気から解放されようとすれば、私が自分の記憶の中から彼女の病気を消し去る必要がある。
病気で苦しんだのは、妻も勿論だとして、私も苦しんだ。
妻は肉体的にはすでにそこから解放されてゐるのに、18年経つてなお私がまだ解放されずにゐる。
妻のことに限らず、我々は往々、
「あの人は昔あゝだつた」
といふやうな記憶にいつまでも拘る。
さういふ記憶から自分自身を解放し、まつさらな気持ちでその人を見ることは、存外難しいものだと思ひます。

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