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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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正常な信仰者になる道はどこにあるのか

20190209 

私たちの路程に不満や不平はあり得ません。
今、二世は一世と同様に、信仰で最も基本となる「万事に感謝する生活」をしていないので、非常に心配です。
聖書と原理で言及されているように、正常な信仰をもった人は、天にまず感謝するようになります。
(韓鶴子総裁)

繰り返し同じテーマに戻るやうですが、我々の人生にとつて重要な指摘だと感じるので、再び取り上げてみます。

お母様の見られるところ、今の我々は、
「万事に感謝する生活」
ができてゐない。

このやうな姿は
「正常な信仰をもつた人ではない」
と言ふのです。

原理を学んだと思つてゐる者がいまだに正常な信仰生活をしてゐないといふ指摘は、本当でせうか。
「感謝」が信仰の重要な徳目の一つだといふことは、(多分)誰でも承知してゐる。

だから「感謝」しようと心がけてはゐるものの、さらに突き詰めて、
「万事に感謝してゐるか」
と問はれると、
「それはちょつと」
といふのが正直な気持ちに違いない。

普通に感謝することを「相対感謝」、万事に感謝することを「絶対感謝」と名付けてみると、この2つの感謝の間には、同じ「感謝」といふ名前ではあつても、限りなく大きな隔たりがあるやうに思はれます。

「感謝」といふことの重要性を知りながらも、なぜ「絶対感謝」はできてゐないのか。
その理由を、私なりに考へてみると、差し当たり2つの理由が思ひ当たります。

① 絶対感謝の意義や価値をあまり自覚してゐない
② 絶対感謝の仕方が分からない

この2つの問題に対する解決策を私なりにこれまで模索しながら、あれこれ記事にも書いてきました。
(当然ながら)いまだ完全解決には至つてゐないものの、それでも解決の道筋は少しづつ見えてきたやうには感じてゐます。

①については、お父様の次のみ言葉が足掛かりです。

信仰生活の本質とは何でしょうか。神様に感謝する心です。
そのような心があれば、それが堕落の因縁を越えて神様と私が一つの因縁で結ばれる基になるのです。

復帰途上にある者にとつて、「感謝」は堕落の因縁を越える道であり、それを越えれば神様との本然の関係が取り戻される可能性が見えてくるといふ。

その理由を考へてみると、堕落のない本来の世界にはそもそも「絶対感謝」しかないのです。
万物の存在目的も、人間自身の構造も、知れば知るほど、
「有り難い」
としか言ひやうがありません。
創造原理はそのことを悟るのが最も重要なことだらうと思はれます。

ところが、私なども長年原理を学んでみながら、
「神の二性性相がどうの、万有原力がどうの、霊肉界の関係がどうの」
などといふことに意識を取られて、
「原理のどこに『感謝』があるのか」
といふことに目が向かない。

しかし感謝の意義が分かるにつれて、「絶対感謝」に向かひたい気持ちが高まります。
向かはうとすれば、その方法が分からないといけないのですが、これがまた簡単でない。

感謝したいと思つても、実人生には感謝できないことが多い。
思ひ通りにいかないことはいくらでもあるし、大小さまざまな苦痛は毎日のやうに襲ってくるのです。

それらをすべて感謝しようとすれば、それらの中に、
「感謝するに足る価値」
を見出さなければなりません。

「苦痛は苦痛だが、これには何か神様の意図があるのだらう。何か先祖からくる因縁があるのだらう」
などと、信仰的に考へようとします。

しかしその「何か」は、決して私には分からない。
分からないことを信じようとするので、信仰になります。

アダムとエバも、
「取って食べるな」
といふ戒めを信じて守れば、その先どうなるのか、分からなかった。

だからその時にも「絶対感謝」しかなかつたと思はれます。

今の我々は、彼らと違って、過去の蕩減的情念が数限りなく再生されてきます。
堕落世界で先祖たちが持たざるを得なかつた思ひが、私を通して出てきます。
それを変換する手間があるぶんだけ、我々には「絶対感謝」が容易でない。

さう思ひますが、かと言つて決して不可能ではない。

その難しいことを可能にする方法が何かと言へば、
「『有り難う』といふ者になる」
ことだと、私は考へるやうになりました。

「有り難い」
と心で思ひ、言葉にも出して言ふことから始めるにせよ、目指すのは、
私は『有り難い』という存在です
といふところまで行かうとする。

そのためには、まづ「蕩減的情念」を手放します。
不平や不満、不安や心配、傲慢や批判、あるいは自分なりの喜びまで、それらが湧いてきたときに、キャンセルする。

それらの思ひを無に戻すようにして、その空間に「感謝(有り難う)」を埋め込む。

「このことに対して、私が本当に持ちたかった思ひは『不平や不満』ではなく、『感謝』だつたんです」
といふメッセージを絶えず天に捧げるのです。

これによつて、着実に「蕩減的情念」から解放されていきます。
そして、次の段階が見えてきます。

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No title * by 本人
「絶対感謝」
状況によるのではないでしょうか?

暴力夫や暴力親にまで、感謝は必要ですか?
その人(暴力をする人)の存在を否定はしませんが、暴力という行為に感謝するのはどうかなと思うのですが。
「罪を憎んで人を憎まず」
コレではいけないのでしょうか?

Re: No title * by 教育部長
状況によらないものを「絶対」と言ひますね。
もちろん様々な状況があり得ますから、私に「絶対」ができるかと問はれると、是と答へる自信はありません。
ただ、言はれるやうな「暴力夫」とか「暴力」とかに感謝することはできないし、さういふ趣旨でもありません。
暴力そのものは受け入れられないのですが、何らかの理由があってそのような状況に私が立たされたのではないかといふ「見えざる神の意図」に意識の焦点を当てようと考へるのです。
しかし、意識を向けたとしても、神の意図は分からない。だから、分かるのが目的でもありません。蕩減条件を立てられるかどうか。それが重要なことではないかと思ふのです。原理講論の「復活論」をよく読んでみると、さういふ考へに私はならざるを得ません。
コメントをいただいたことを感謝します。ご指摘いただくことで、私も自分の考へを改めて振り返つてみることができます。

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No title

「絶対感謝」
状況によるのではないでしょうか?

暴力夫や暴力親にまで、感謝は必要ですか?
その人(暴力をする人)の存在を否定はしませんが、暴力という行為に感謝するのはどうかなと思うのですが。
「罪を憎んで人を憎まず」
コレではいけないのでしょうか?
2019-02-10 * 本人 [ 編集 ]

Re: No title

状況によらないものを「絶対」と言ひますね。
もちろん様々な状況があり得ますから、私に「絶対」ができるかと問はれると、是と答へる自信はありません。
ただ、言はれるやうな「暴力夫」とか「暴力」とかに感謝することはできないし、さういふ趣旨でもありません。
暴力そのものは受け入れられないのですが、何らかの理由があってそのような状況に私が立たされたのではないかといふ「見えざる神の意図」に意識の焦点を当てようと考へるのです。
しかし、意識を向けたとしても、神の意図は分からない。だから、分かるのが目的でもありません。蕩減条件を立てられるかどうか。それが重要なことではないかと思ふのです。原理講論の「復活論」をよく読んでみると、さういふ考へに私はならざるを得ません。
コメントをいただいたことを感謝します。ご指摘いただくことで、私も自分の考へを改めて振り返つてみることができます。
2019-02-10 * 教育部長 [ 編集 ]