100%の感謝に近づく道
海の水自体は同じでも、船の状態によつて、船に対する水の様相は180度変はるものです。
船に何の故障もなく、穴や隙間もなければ、水はその船が浮かび、快適に走るためになくてはならない助け手である。
ところが、その船にちょっとした穴でも開いてしまふやいなや、水はたちまち船に侵入して沈めてしまふ、恐ろしい敵に豹変するのです。
この船と水との関係は、「私」と「環境」との関係によく似てゐます。
身近な関係をもって接してゐる人同士は、共通要素の多い似たやうな環境に生きてゐるといふ事実とは裏腹に、その環境が自分にとつてどのやうな関係なのかは人それぞれにまつたく違つてゐる可能性がある。
ある人は、
「自分の周りには良い人が少ない。私を嫌つたり、騙したり、軽んじたりする人ばかりだ」
と感じてゐるかも知れない。
ところが別の人は、前の人と共通した人とも関係を持ちながら、
「私は人に恵まれてゐる。優しくて、思ひやりがあり、私を助けてくれる人が多い」
と思つてゐるかも知れない。
さうだとすれば、これは周りの人が違ふのではなく、環境をどのやうに感じるかといふ「私」の感じ方の問題といふことになる。
この
「何をどのやうに感じるか」
といふ感じ方は、感じるままにまかせてゐるうちは、ほとんど自分のコントロールの枠外にあります。
「このことに対して私がどのやうに感じるか」
「次にどんな思ひが私に浮かんでくるか」
といふやうなことは、私が頭で考へて分かることでもコントロールできることでもないでせう。
一説によれば、我々の脳裏には1日のうちに3万とも5万とも言はれるほど多くのさまざまな思ひが去来するのださうです。
そしてそのほとんどすべてを、我々は自分の頭でコントロールできてゐない。
最初の譬へで言へば、我々は大きな海に浮かぶ船であり、その船に「堕落性」といふ穴が開いていると、そこからどんどんと堕落の要素が入り込んできます。
それで我々の心には我知らず、
「ああ、だめだ。不安だ。今日もうまくいかないだらう。周りは敵だらけで、私は被害者だ」
といふ弱気や被害者意識になったり、あるいは逆に、
「私が正しくて、あの人が間違つてゐる」
といふやうな傲慢な思ひになつたり、さらには、
「あいつが天罰を受けていい気味だ」
といふやうな残酷な思ひまでが、次から次へと浮かんでくるのです。
このやうにして、我々は先祖たちのほとんどが辿つて来たと同じ道を忠実に歩んでいく。
あるいは、自分が今船の側面に穴が開いたまま、堕落の要素が入るにまかせ、座礁した状態から抜け出せずにゐるのです。
ところが原理を学んでみると、自分が穴の開いた船であつたといふことに初めて気がつく。
本当は、そこからが出発です。
まづ何としても、穴を塞ぐ作業を始めなければなりません。
どうしたらいいのでせうか。
「ああ、この思ひは先祖たちの蕩減に絡んだ堕落の思ひだ」
と、自分の中ではつきりと確認する。
そして、
「この思ひを私は手放します。先祖たちの堕落の思ひを私は追認しません」
と宣言し、
「このやうな堕落の海に自分が浮かんでゐることを悟らせて下さつた神様の計らひに感謝します」
と「感謝」を表明するのです。
私が自分自身の堕落の思ひに無自覚である限り、この海は決して安息の海ではありません。
私は海の水を変へようと思ふ必要はない。
私の穴を塞ぎさへすればいいのです。
堕落の思ひを感謝にことごとく変へていく。
それが穴を塞ぐことであり、私の責任です。
お母様が言はれる
「100%の感謝」
に近づく道だと思ひます。

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