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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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私が体験するすべてのことは私の責任です

20190126

原理講論「堕落論」第5節に、
「(本心の)自由の原理的意義」
について、3つが挙げられています。

① 原理を離れた自由はあり得ない
② 責任のない自由はあり得ない
③ 実績のない自由はあり得ない

ところが、アダムとエバが堕落することによって、
(本心の)自由を失うこととなった
というのです。

失ったとは、どういうことでしょうか。

原理を離れても生きられるようになり、責任を取らないでも、実績がなくても苦痛を感じないでいられるようになった。
これをもう少し、エデンの園で起きた出来事に即して考えてみましょう。

アダムとエバが
「取って食べるな」
という戒めのみ言葉を破って堕落したのち、アダムは
「私に責任はない。エバに騙された」
と弁明した。

エバも
「私に責任はない。蛇に騙された」
と弁明した。

神様は創造原理を立てるとき、ご自身の責任分担を95%に限定し、残りの5%を人間(アダムとエバ)に分け与えられました。
ところが2人は、その5%を自ら放棄したことになるのです。

実績のない自由はない、と言うときの「実績」とは、
神を喜ばせ得るような実績
です。

「私に責任はない」
と言うとき、その自分たちの態度が神を喜ばせ得ないかどうか、それはどうでもいい。
とても、それどころではなかった。

2人が捨て去った5%を誰かが肩代わりするようになったのか。
天使長がそれを譲り受けたとは思えません。

となると、5%について、誰も責任を持たない。
神様を喜ばせるということを、誰一人考えない。
三大祝福のみ言葉も、戒めのみ言葉も、この世から隠されて、誰の目にも見えない。

神の復帰摂理の願いは、
「5%について、私が責任を持ちます」
という本心の自由を人間が取り戻すことだと見ることもできます。

そのような観点で復帰原理を学んでみると、真の父母に続く私たちのあるべき信仰の姿勢は、
私が体験するすべてのことは私の責任です
という態度に行き着くしかありません。

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