逝く3人のお兄さん
昨日、私の信仰のお兄さんが聖和されました。
昔、30代だった私が米国の神学校を卒業して帰国し、初めて牧会者の任に就いたとき、経験もなく右も左も分からなかった私を最も親身になって受け入れ、指導してくださった。
最も恩が大きく、深い感謝を感じる方です。
聖和される数日前、時間を作ってやっと自宅までお見舞いに行ったその日が、ちょうど71歳の誕生日。
意識ははっきりしていたものの、体力は弱まり、体が痛がっておられたので、二言三言言葉を交わしただけで辞したのですが、これほど早く逝かれるとは思いもしなかったことです。
さらに遡れば、この9日には李耀翰先生、続く12日には朴普煕先生が、まるで申し合わせたように逝かれています。
基元節6周年を直前に控えて、このような時に逝くべき何かの使命を戴かれたのかという気もするほどです。
3人のお兄さんを第3の人生にお送りする思いで、花向けに李耀翰先生の牧会のみ言葉をここにご紹介しようと思います。
★★★
み言葉を合理的に理解して信じる信仰を観念的な信仰であると言います。
観念的な信仰は、知的にのみみ言葉を受け入れようとする動機によって形成されます。
私たちは、一番目にこのような観念的な信仰を経て、二番目に意識的な信仰を経て、三番目に習慣的な信仰を経るようになります。
習慣は自分が正しいと考え、反復して形成されるものなのですが、悪い習慣は自分の信仰に害を及ぼし、良い習慣は反復することによって自分の信仰を丈夫にします。
習慣的な信仰を経たのちには、最終的にみ言葉を受肉し、心霊を成長させる心情的な信仰へ成長して生霊体を育て上げなければなりません。
このように、み言葉が私たちの心の中に受け入れられて心情によって生霊体を育て上げることが、まさしくみ言葉の目的です。
み言葉を知的に受け入れ、行動的に反復し、心情的に受肉し、生霊体を育て上げることが信仰生活なのですが、途中でとどまりやすいのです。
多くの人たちが知ることにとどまり、意識にとどまり、習慣にとらわれるのを見るとき、それで復帰歴史がこのように延長されたということを知ることができ、本質的に深く入っていけなかったということを知ることができます。
そのように悟るならば、悟ったことに対する責任を負い、行動しなければなりません。
心では嫌でも、悟ったことに対する行動を反復しなければなりません。
宗教儀式というものも、心では嫌でもしきりに反復するならば、その反復を通じて真実が誘発され、真実なる心情に到達するようになります。
真実なる行動は、み言葉によるとき現れます。
これが真情です。
話を上手にする人に対するときも、形式的に「上手だ」と言わずに、その人に対して大切に思う心をもたなければなりません。
挨拶をするときにも、その人を心から尊く思うことが真情です。
賛美歌を歌うときにも、心から歌うのと、曲と歌詞を知っているからとただ歌うのとでは、大きな差があります。
心から歌わなければ形式的になりやすいのです。
真情でもって歌えば、心の刺激になります。
このようになるならば、自分がもっと大切になります。
生活の中で悟らなければどうすることもできませんが、悟ったならば悟ったように行動しなければなりません。
悟ることによって自分で自分を主管するならば、心が真実になります。
(『聖書の中の心情圏』李耀翰 p.15-16)
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