誰かのために仕事をして死ぬ
最近、一緒に仕事をしている人たちに、
「あなたたちが人のために何かをして死ねば、永遠の弁明になる」
という話をしています。
ほかに弁明は要らない、ただ人のために仕事をして死になさいということです。
そうすれば、その仕事が完成できなくても弁明にはなるという話です。
(『心情文化世界とマルチメディア』文孝進)
堕落論を通しても、お父様のみ言葉を通しても、
「弁明」
というのは人間始祖の堕落以来始まり、今日まで数百万年続いてきた(というのはお父様の表現ですが)堕落性だと言えます。
しかし、孝進兄さんの話は、「弁明」にも二通りあるという示唆を与えてくれます。
自分が「生きよう」としてする弁明は、堕落性。
しかし、自分が「死ぬ」と覚悟してする弁明は、神様に通じる。
その実例を、孝進兄さんは上に引用した箇所の続きで、こう話しておられます。
ですからイエス様は偉大なのです。
私たちの教会では、イエス様は本来の使命を果たすことができなかったと言います。
自信がなければ、最初からそのように死のうと考えるのが賢くて賢明なことです。
(『同上』)
イエス様が完全な救いの道を開けずに亡くなったと言えば、イエス様の不足を指摘するようになります。
しかしイエス様が偉大だというのは、完全な救いがもはや無理だと悟られた時に(自信がなければ)、
「死のう」
と考えられたことです。
「私は神の摂理のために、イスラエル、全人類のために死ぬ」
と覚悟を決めて死ねば、
「私はやり抜こうとしましたが、できませんでした」
という言い訳をしても、神の審判台を通過できる。
自己の永遠性という観点から見た場合、そのように考えるのが最も賢明です。
(『同上』)
肉身はどうせいつか死ぬのです。
しかし霊人体は永遠に生きる。
永遠に良く生きていくためには、
「誰かのために仕事をして死ぬ」
と考えるのが最も賢明だと言うのです。

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