捨ててこそ
ずいぶん昔に読んだ鈴木大拙の『日本的霊性』の内容はだいぶうろ覚えだが、改めてwikipediaなどで確認してみると、
「霊性の日本的なものが触発されたときに初めて日本に本当の意味で仏教がおこった」
という趣旨のことを論じています。
仏教が日本に入って来て日本人を仏教的に感化したというより、日本人の中に元々潜在していた霊性が仏教をきっかけとして自覚的に現れた。
そんなふうに見るようです。
鈴木によれば、本当の意味の日本の仏教は、「禅宗」と「浄土教」の2つ。
いずれも日本の支配層が奈良平安の宮廷人から鎌倉の武士に移行する時代に生まれてきました。
宮廷人たちが「土」につながっていないのに対して、武士は直接「土」につながっている。
その武士が農民たちを支配することを通して、日本全体が「土」とつながった。
この、「土」とつながるということが日本的霊性の顕現に必要な条件だと、鈴木は考えます。
浄土教の主要な流れを見ると、平安時代中期(900年代)の空也。
その後、平安から鎌倉をまたぐ法然とその弟子の親鸞。
それからさらに100年後には一遍。
浄土教に現れた日本的霊性の特質を示す、一つの面白いエピソードがあります。
ある人が一遍上人に手紙を出して、
「そもそも本当の念仏とは、いかに」
と尋ねた。
上人の答えは、
「南無阿弥陀仏と口に唱えるほか、さらに工夫もなく、これといった妙案もない」
と、素っ気ない。
そこでさらに突き詰めて尋ねると、西行法師が書いたと伝えられる『撰集抄』にこういう話があると言う。
「ある人が空也上人に念仏をどう唱えるべきかと尋ねたところ、上人はただ一言『捨ててこそ』とのみ答え、後は何も言わなかった」
そして、一遍上人はこの話に次のようなコメントを付けるのです。
「是れ誠に金言なり。念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、阿弥超世の本願に尤もかなひ候へ」
愚痴を捨てよ、というのは分かる。
しかし、智慧までも捨てていいのか。
普通には、これは善、これは悪と区別して、悪を捨てよというでしょう。
しかし、善と悪との区別自体を捨てよという。
地獄に落ちるという恐怖心は不要だ。
しかし、極楽をも願うなという。
どうもこの辺に浄土教の本質があるのだろうと思います。
そして、我々がこれからどのようにして堕落性を克服していくのかと悩むとき、貴重なヒントを与えてくれるもののような気もします。

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