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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

サタンの讒訴はまだあるのか

2019/01/09
原理を学ぶ 2
20190109 

罪とは、サタンの讒訴を許諾することです。サタンが人間を讒訴できるのは、人間が正にサタンと血統的な因縁があるからです。
(1969.5.19)

人類の先祖であるアダムとエバは、自分たちを中心とする誤った愛によって堕落しました。神様が許諾していない愛の因縁を導入することによって、私たち人間には何が生じたかというと、原罪というものが生じました。
(1970.10.19)

罪には、原罪があり、自犯罪があり、連帯罪があり、先祖から受け継いだ遺伝的罪があります。それを清算していかなければなりません。主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っています。
(1993.10.17)

今日もある方に堕落論の講義をしたのですが、罪と堕落性は難しい問題だと、講義するたびに思います。

罪とは、サタンの讒訴を許諾することだと、お父様は言っておられます。
許諾せざるを得ない条件は、サタンとの血統的な関係です。

その罪は、並みの罪ではない。
神の血統となるべき人間をサタンの血統に落としてしまった。
原罪と呼ばれます。
そしてその罪を犯したのは、人間始祖アダムとエバです。

サタンにしてみれば、この罪のゆえに讒訴する相手はアダムとエバでしょう。

「お前たちが人間としての責任を果たさなかったせいで、私が本来受けるべき愛を神様からも人間からも受けられなかった」
とこの2人を責める。

それは分かるけれども、2人の子どもたち(子孫たち)は2人と同じ立場ではない。
子孫たちは何も知らない立場で生まれ、生まれてみたら原罪があると言われるのです。

サタンからすれば、彼ら(我々)に対して、
「お前たちも悪い。お前たちのせいで私は被害を被った」
とは言えないし、言いたい気持ちもない。
特別に憎いわけでもなく、恨みがあるわけでもないのです。

せいぜい、
「責任を果たさなかったアダムとエバの子孫だから、私のものですね」
と、神様にその所有権を主張できるだけです。

すると、我々がサタンの讒訴から脱するためには、血統的な因縁を清算すればそれでいいということになります。
そしてそれは我々自身の力でできることではないので、アダムとエバの身代わりとして来られる真の父母に委ねるしかない。

終末の時代に真の父母が来られ、その責任でサタンとの血統的な因縁を清算してくださる。
そうすると、我々はサタンの讒訴圏から免れることができるはずです。

清算のために我々が通過する条件が、祝福。
そうだとすれば、我々が祝福を受けてサタンとの血統的因縁を切った後には、サタンから讒訴される何の要素もないことになります。

そう思われるのに、厄介なことに、罪には原罪の他に3つもあるというのです。
遺伝的罪、連帯罪、自犯罪。
これらの罪は一体誰が讒訴するのか。
サタンは讒訴しないでしょう。
彼が讒訴するのは、彼自身が関わり恨みを抱いている原罪だけです。(これは正しいのか?)

すると、この3つの罪を讒訴するのは、その犯罪行為の被害者たちだと思われます。

「私はお前のために、このように傷ついた。恨みがある。私の受けた被害に対して償いをせよ」
と詰め寄る。

その本人に償いが不可能なら、その子孫に同等の償いを求める。
「お前の何代前の先祖が加害者だから、お前にその償いを要求する」
と言うとき、その罪が私の遺伝的罪となります。

「主の弟子になっても、各自の蕩減の道は残っています」
というのは、そういうことではないでしょうか。

主に出会って原罪を清算され、それ以上サタンからの讒訴はなくなったとしても、人間同士の讒訴が残っている。
人間は長い時代を経ながら、その血統が無数に枝分かれをしてきたので、それぞれが背負っている人間同士の讒訴条件の量はみな違っている。
それで、各自が行くべき蕩減の道は、比較的軽い人から死ぬほど重い人まで、千差万別になる道理です。

1999年3月21日をもってサタン(元天使長ルーシェル)が神様に謝罪し、サタンであり続けることを自ら放棄したと聞いています。
この事実は一体何を意味しているのでしょうか。
理屈で考えれば、サタンはそれ以降、血統的因縁さえも讒訴しなくなったということではないかと思われます。(これは正しいか?)

すると、今の時代の人類が生きている立場はどのようなものか。

祝福を受ける前の人は、原罪はあっても、それをサタンに讒訴されない状態。
しかし、他の3つの罪は残っているので、それについての蕩減の道は行かねばならない。

祝福を受けた人は、原罪もなく、サタンにも讒訴されない。
しかしやはり、他の3つの罪は残っているので、同じように蕩減の道は行かねばならない。

祝福から生まれた二世(三世以後も)は、生まれながらに原罪もなく、サタンにも讒訴されない。
しかし、その父母が3つの罪をすべて清算していなければ、やはりそれについての蕩減の道は残っている。

原罪があるということと、それをサタンが讒訴するということとは、別に分けて考えるべきでしょうか。
もし同じことだと考えれば、サタンの讒訴のない時代にはもはや祝福の必要もないということになります。

しかし、原罪はサタンがそれを讒訴するかどうかというだけの問題ではないように思われます。
サタンが讒訴するかどうかとは別に、神様の側の問題も解決されなければならない。
(これはまだ私の考えがまとまらない)

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Comments 2

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後ペトロ

讒訴とサタンの声

まるで考え違いをしておられるようです。霊的体験があまりにも乏しいので、実感をもって語れない。
まず第一に、罪とは「サタンと相対基準を結んだ結果行ったあらゆる行為」です。サタンはたえず、人間に「神様に反する行為」をなさせようとする。サタンの誘惑や惑わしに乗って、神様に反する行為をすると、サタンは「ほら、見なさい。この人は私の言うことを聞く人です。私のやり方を真似、行いを真似ている。私の子孫です」というのです。
そこでサタンの願うままに行う人々をサタンの血統だと言うのです。
一方で、神様の声を聞いてその願いを行う者は「神の子」です。
ここでいうサタンとは講論が、「億万のサタン」と述べたように、ルシファーだけではありません。
たくさんいるのです。

2019/01/17 (Thu) 09:10

後ペトロ

つづき

つづき)

例えば、「祈り」を条件物として献げるとします。サタンは、その祭物を奪おうと様々なジャマをします。まず最初にするのは「忘れさせること」です。しかし忘れない人には、たくさんの妄想や雑念が湧いてきて、その精神集中を奪い、祈りの実であるインスピレーションを妨げようとします。妄想や雑念で最も抵抗しづらいのが、性的妄想です。
このようにして働きかけており、その働きかけに惑わされ、乗ってしまうと条件は奪われ、サタンは「どうだ、やっぱりこいつは私の子孫だ」と勝ち誇ります。神様がいくら、「これは私の子だ」と言っても、サタンは「いや、こういう行為をしたからには私の子ですよ」「あなたの子であれば、あなたの声に従うでしょう。しかし私の子なので私の声に従うのです」と讒訴し、神様も認めざるを得ないのです。

2019/01/17 (Thu) 09:13