私は「有り難う」という者です
『日本文化のキーワード――七つのやまと言葉
四国八十八ヵ所霊場巡礼のお遍路さんが何ヶ月もかかって旅をして、最後88番目のお寺にたどり着く。
そこで老若男女さまざまなお遍路さんたちが、お互いに手を合わせて涙を流している。
その時にみんなが我知らず繰り返す言葉が、
「有り難うございます、有り難うございます」
お大師さん(弘法大師)に向かって言うのなら分かる。
ところが、隣にいる同行の遍路さん同士、誰彼構わず合掌し拝み合っている。
その時、ほとんど頭で考えずに口をついて出る言葉が、
「有り難う」
なのです。
栗田氏が指摘するように、こういう場面は独りお遍路さんに限らない。
駅伝でもバレーボールでも、何か共同でコミットしたことがある場合、そこに一体化した空間を感じると、日本人は我知らずお互いに「有り難う」と言うのです。
それを栗田氏は、
「そこでは、もうほとんど人間の存在、心情が言葉と一体化している」
と表現しています。
「有り難い」
とは元々、
「有ることが難しい、あら、ふしぎなことよ」
という意味で、神仏をほめ讃え、感謝する言葉だった。
それがおそらく鎌倉時代以降、次第に人と人との間のお礼の言葉になっていったと見られます。
しかし上のような実例を考えると、今でも我々日本人の中では、神仏も人間もないまぜになって、
「有り難う」
という言葉が胸の奥深くから滲み出てくるもののように思えます。
お父様は、
「感謝は信仰の本質である」
と言われ、お母様は、
「本当に感謝できれば、心と体の統一が成される」
と言われる。
言うまでもなく「有り難う」は、感謝を表す言葉です。
しかし「有り難う」という言葉は、誰かに何かをしてもらったときに、その相手に対してだけ発せられる言葉ではない。
栗田氏が言う通り、「有り難う」という言葉は単なる言葉ではなく、我々の存在と一体となったもの、もっと言えば、
「私という存在そのもの」
なのです。
それで、八十八ヵ所を廻り切った時には、我知らずこの言葉が出てくる。
感謝したい対象の頂点には仏様、お大師様がおられるにしても、その方々は今目の前に厳然として見えない。
それで今自分の目に映る同行の巡礼者たちがお大師様にも思えて、自然に手を合わせるのです。
「私は『有り難う』という者です」
「私は感謝する者ではなく、私が感謝です」
このような思いがいつも我々の心の中に湧き起こるなら、心と体の統一に間違いなく向かえるのではないかとも思えます。

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