いいなぁと惚れ込む感性のほうが大事だね
僕らの世代は他人の映画の悪口ばかり言っていた。でも、後になって批判する頭のよさより、いいなぁと惚れ込む感性のほうが大事だと思うようになったね。
アイツはばかだとか、あの作品はだめだとか、決めつけるのはかっこよかったり気持ちがよかったりするけど、そういう人間はえてして才能がない場合が多いな。
(『仕事。』川村元気著)
川村さんと言えば、2016年に大ヒットした映画『君の名は。』のプロデューサーとして一躍名を上げた印象がありますが、小説家としても『世界から猫が消えたなら』が140万部のベストセラーになっているし、絵本作家でもある。
謂わば、気鋭のマルチ・クリエイターです。
『仕事。』は今から7年前、彼が30歳を少し過ぎた頃に、一世代以上年上の大御所たちにインタビューしたもの。
冒頭に引用したのは、映画監督・山田洋次の言葉です。
山田がまだ若いころ、小津安二郎の『東京物語』を観て、つまらないと思っていた。
カメラは動かない、フェードインもフェードアウトもない、役者は大声で叫ばなければ大笑いもしない。
洋画では『ローマの休日』も、どこがいいのか納得できない。
ストーリーに社会性が全くないし、王女と新聞記者の甘ったるいラブロマンスのどこがいいのか。
しかし経験を積み、年を取ってみると、
「人が作ったものをあれこれ批判するのはかっこいい」
というようなとんがったものが段々なくなる。
反対に、
「あそこには、ああいう隠れた演出があるんだ」
というような目も磨かれ、感性が変わってくるのです。
「批判する頭のよさ」というのは、分析が鋭いというより、対象の「不足な面」とか「自分の感性と合わないもの」とかに自分の意識が向けられるということではないかと思います。
そういう要素はどんな対象にも必ずあるでしょうが、本質はそれを見る自分がどういう「眼」で見ているかのほうにある。
批判するというのは、批判する自分と批判される対象とを分離し、いわば対立関係に置くことです。
自分を基準として、
「その基準に合わない対象はだめだ」
と考える。
それに対して「惚れ込む」というのは、自分が対象に近づき、その対象と融合しようというような願望がある。
そういう時は、対象のおかしなところよりは、それが持っている何かしらの良いものが見えてくるものです。
私が思い出すのは、小林秀雄も同じことを言っているのです。
「批評を生業にして、若い頃には批判も書いたことがあるが、段々と批判は書けなくなった。今は褒めることだけを書いている」

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