こころ教は選択する
東京大学の池内恵(さとし)教授は、イスラーム教と日本人の大多数に共通する宗教観を対比して、この二つは対極にあると言い、後者を「こころ教」と呼んでいる。(『中央公論』2019年1月号)
池内教授によれば、イスラーム教の主要な特徴は2つ。
一つは、この宗教の最重要要素が「律法」であるという点。
もう一つは、宗教共同体が信者にとって社会的、政治的な帰属意識の対象となるという点。
イスラーム教の「律法」はアラビア語で「シャリーア」と呼ばれる。
これは「啓示」を意味する「シャルウ」の派生語なので、イスラーム教の啓示はそのまま「法」であり、律法は「啓示法」と訳してもよいことになる。
イスラーム教においては、神がすでに下してしまった啓示法を人間の側から拒否したり、部分的に選択して受け入れたりする権利はなく、そもそも不可能なのです。
ある人がイスラーム教徒(ムスリム)であるということは、すなわち、啓示法のすべてを受け入れるということを意味します。
もし受け入れないのであれば、その人は死後に地獄に落ちるしかない。
しかし受け入れ、啓示法に従って生を送れば、死後に最後の審判でそれを認められ、天国に行ける可能性がある。
ある人がムスリムの父母のもとに生まれれば、それはもう自分もムスリムとして生きていく、それ以外の選択肢はない、ということになります。
これは例えば日本でも、浄土真宗門徒の家に生まれればほぼそのままその宗旨を相続するのと似ているようにも見えます。
しかし、どうも実は相当に、もっと言えば根本的に違っている。
池内教授が日本人の宗教観を「こころ教」と呼ぶ意味は、大体こういうことです。
人間は自分の「こころ」が感じるままに宗教あるいは信じるものを選べばいい。
一人一人の「こころ」が各自にとって必要で有用な、真理と思える宗教を自由に選べばよく、また実際に人間は選べるという認識を前提としている。
これは、その人の宗教が仏教であれキリスト教であれ神道であれ、あるいは無宗教と自認していたとしても、共通して抱かれている信念であるので、それを「こころ教」と呼ぶわけです。
日本人にとってはこの信念が各宗教を超えた上位の信念となっているというのが、池内教授の見立てなのです。
この見立てに従って考えれば、日本人にはイスラーム教を感覚的に理解することも、さらには受け入れることもかなり難しいということになりそうです。
そのような気もします。
そしてこれは同じ一神教のルーツを持つキリスト教でも同じようではないかと思えます。
例えば、1997年教皇ヨハネ・パウロ二世の在位時に編纂されたカテキズム。
カトリック教会の教えを一般信者にも分かりやすくまとめられたテキストで、日本語訳は800項を超える分厚なものです。
その中には、教会で行われる儀礼の意味をはじめ、中絶や同性愛、戦争・自殺・安楽死など広範囲にわたるテーマに対する教会の見解が示されています。
カトリック信徒であるということは、このように整備された教えをワンセットで受け入れることを意味する。
イエスを神の子、救い主と信じるなら、中絶も同性愛も否定しなければならないのです。
日本人は本当に「こころ教」信徒なのか。
私自身は19歳で原理に出会ったとき、
「運命だな、これを離れることは多分できないだろう」
という気がしたのを覚えています。
学んだ原理を受け入れるということは、教会が提示するすべてのことを「是」として受け入れることだと、ほぼ無意識的に思っていた。
とても「啓示性」の強い一神教の教えに分類されます。
私も「すべてが是なのか」と思い悩むことがありましたが、人によってはさらに強く「こころ教」的な信念と「啓示性」との間に葛藤を感じる場合があるかも知れない。
葛藤が強ければ、一時的にでも教会から距離を置くという選択をする場合もあり得ますが、葛藤そのものは必ずしも悪いものではないと思うのです。

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