原理講義、今になって迷う
原理講義との付き合いは、信仰歴とほぼ同じくらいに長い。
最初は、しどろもどろ、講義は難しいと思った。
それでも回数を重ねるうちに、段々慣れて来る。
原理講義のやりやすいところは、すでに筋書きがしっかりできていることです。
基本は「原理講論」の通り、「創造原理」から始め、「堕落論」をやり、「メシヤ論」から「復帰原理」へと続く。
礼拝の説教のように、毎回ゼロから内容を考えるような苦労はない。
そうなると、
「原理講義は何とかできる」
と思うようになる。
しかし教育部長になって十数年経った今、
「原理講義は簡単ではない」
というのが本音です。
「簡単ではない」
というより、
「どういうふうに講義したらいいのか、迷う、分からない」
というのが、もっと精確です。
お父様が聖和される直前、「本体論」というものが登場し、それと関連して「昼の神様」「夜の神様」というような、それまでに聞いたことのない概念が出てきた。
更には、
「天使長は神様の弟である」
というような、謎めいた話もされながら、分かりやすい説明のないまま迷宮入りになったような感じです。
これらのことがもう少しはっきりすれば、創造原理も堕落論も従来通りではなくなると思うのに、霧の中なので、実際には講義はほとんど今まで通り。
「原理講義はこのままでいいのか」
というもやもや感が消せないのです。
問題はそれだけではない。
時代は一世の時代から二世、三世の時代へと移りつつある。
それなのに、原理講義は一世時代のままでいいのか。
原理の基本が変わるとは思いませんが、その表現方法とか重点の置き方など、もっと時代に合ったというか、敢えて言えば、より本来の形にすべきところがあるのではないか。
そういう気がするのですが、それをうまく形にできない。
もどかしいのです。
例えば、「堕落論」は今までのようにするべきなのか。
そもそも、「堕落論」という項目はこれからも必要なのだろうか。
一世にとっては堕落世界からの脱出が救いの必須条件なので、堕落論の原罪論はどうしても学んで理解しなければいけない。
その上で復帰原理を学び、蕩減条件を立ててメシヤに出会う道を行く決意をしなければいけない。
しかし二世以後の世代にとって、そういうことが同じように必要だろうか。
二世に堕落論を講義することは、病気が回復して今まさに病院を退院しようとしている人に、
「あなたの病気、先祖から受け継いだ遺伝的な問題はこういうものだったんだ」
と、もはや思い出さなくてもいいもの、忘れたほうがいいものを、敢えて念入りに教えて記憶に刻み込もうとする行為のようにも思えます。
これからの堕落論は創造原理に組み込む形で講義したらどうだろうか。
「取って食べてはならない」という戒めは拘束ではなく、むしろ大きな祝福のみ言葉だったという観点から解読する。
自分の中にどのような創造本性があって、それを啓発していくにはどういう生活をしたらいいか。
それを創造原理の中でもっと掘り下げる。
これは二世だけの問題ではなく、実は一世にとっても当てはまる。
創造本性が育たない原理講義では、意味がないと思うのです。

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